天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第八章 綏靖、並びに欠史八代

だ前回の要点:
天稚彦=兄磯城=彦湯支。味耜高彦根=弟磯城=味饒田。
神武(淡路)と椎根津彦(久比岐)が共闘して兄磯城を挟み撃ちにする。丹波大己貴の国譲りとは、このとき淡路・久比岐との対立を避けて素通りさせたこと。
淡路勢と対立する長髄彦は葦原醜男と須世理毘売の子孫。

媛蹈韛五十鈴媛

神武は橿原に宮を造営したのち高貴な女性を求める。進言を受けて媛蹈韛五十鈴媛を正妃に迎え、自身の天皇即位にあわせ皇后とする。

媛蹈韛五十鈴媛の父には大物主説と事代主説があり、神代上第八段(八岐大蛇)一書第六は双方の説を記す。大物主にしろ事代主にしろ越前素戔嗚の系譜なので、この違いにこだわる必要はないだろう。

このエピソードに該当する神武は大彦である。
淡路勢を含む瀬戸内勢が国見岳八十梟帥を討伐して、淡路の大彦が久比岐青海氏の女性を娶り武渟川別を儲けた。

久比岐青海氏祖の椎根津彦を祀る越後加茂の青海神社は、794年から京都の賀茂神社の分霊も併せ祀る。記紀が記す媛蹈韛五十鈴媛の誕生譚が、賀茂神社に祀られる賀茂健角身と玉依比売の逸話をもとにした創作だからだろう。

神代上第八段 八岐大蛇 一書第六
事代主神 化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姬 或云玉櫛姬 而 生兒姬蹈鞴五十鈴姬命 是爲神日本磐余彥火火出見天皇之后也

事代主神 八尋の熊鰐(くまわに)に化け為る 三嶋溝樴姫と通じる 或いは玉櫛姫と云う 而 生む子は姫蹈鞴五十鈴姫命 是は神日本磐余彦火火出見天皇の后と為る也

倭氏

倭氏は、大彦の妻とともに久比岐から近畿へ移住した久比岐青海氏の分家と考える。

系図では椎根津彦五世孫(飯手足尼)以降にスクネが付いているので、近畿入りはこの頃だろう。垂仁[11]紀に名前がある市磯長尾市から世代数を数えると、飯手足尼は大彦と同世代だ。

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Wikipedia倭国造」より抜粋・転写

先代旧事本紀巻十の国造本紀は、神武[1]朝に椎根津彦を大倭国造に定めたと記し、崇神[10]朝には椎根津彦の後裔を久比岐に、神八井耳(神武皇子)の後裔を科野・火に任命したと記す。
ここでも久比岐・科野と北九州のつながりが見て取れる。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
倭国
橿原朝(神武)御世 以椎根津彦命 初為大倭國造
久比岐國造
瑞籬朝(崇神)御世 大和県同祖御戈命 定賜國造
科野國造
瑞籬朝(崇神)御世 神八井耳命 孫建五百建命 定賜國造
火國造
瑞籬朝 大分國造同祖志貴多奈彦命 兒遅男江命 定賜國造

第二代綏靖天皇

神武崩御後、媛蹈韛五十鈴媛が生んだ二皇子(神八井耳と神渟名川耳)は、日向国吾平津媛が生んだ皇子(手硏耳)が二皇子を害するつもりと知り、先手を打って手硏耳を襲撃する。このとき臆病風に吹かれ殺傷できなかった神八井耳は、代わって遂行した神渟名川耳を称えて皇位を勧め、神渟名川耳が即位する(綏靖[2])。
事績が無いと云われる欠史八代紀に記される唯一のエピソードだ。

神武東征は饒速日勢と淡路勢の事績を組み合わせた創作であり、国見岳八十梟帥以降の神武は大彦なので、神八井耳と神渟名川耳(綏靖)は大彦の子となる。
神渟名川耳は名前にヌナカワを含むことから、武渟川別と同一だろう。

先代旧事本紀巻十の国造本紀は、成務[13]朝に大彦の後裔を筑紫・高志に任命したと記す。
ここでも久比岐・科野と北九州のつながりが見て取れる。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
髙志國造
志賀髙穴穂朝(成務)御世 阿閇臣祖屋主思心命 三世孫市入命 定賜國造
筑志國造
志賀髙穴穂朝御世 阿倍臣同祖大彦命 五世孫田道命 定賜國造

また、崇神[10]朝に「道君同祖」素都乃奈美留を高志深江に、仁徳[16]朝に「能登國造同祖」素都乃奈美留を加宜に任命したとあり、同名だが世代が違うのでいずれかの誤りと見られている。

道君は阿倍氏の同族で、阿倍氏は大彦の後裔(筑志國造に明記)だ。
また活目帝は垂仁(和風諡号が活目入彦五十狹茅)のことだ。
大彦は神武と同一なので、垂仁の祖父だ。
よって世代の記述が誤っているだけで、素都乃奈美留は同一人物と考える。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
高志深江國造
瑞籬朝(崇神)御世 道君同祖素都乃奈美留命 定賜國造
加宜國造
難波立津朝(仁徳)御世 能登國造同祖素都乃奈美留命 定賜國造
能等國造
志賀髙穴穂朝(成務)御世 活目帝皇子大入来命 孫彦狭島命 定賜國造

なお紛らわしいが上毛野国造も彦狭島とあり、能等国造と同名だ。上毛野のほうは垂仁の異母兄/弟である豊城入彦の孫なので、この彦狭島は別人と考える。

ただし、大入来は日本書紀に登場しない。
先代旧事本紀でも巻七天皇本紀に記載はなく、巻十国造本紀の能登国造が記すのみだ。古事記は、尾張大海媛が生んだ崇神[10]皇子と記す。

尾張大海媛は日本書紀先代旧事本紀巻七の天皇本紀でも崇神妃になっており、淳名城入姫らを生む。淳名城入姫は崇神紀と垂仁紀に、倭大国魂の祭主に選ばれたが体調を崩し祀れなかったと記される。

饒速日

神渟名川耳(綏靖)が淡路勢の系統なら、手硏耳は饒速日勢の系統だろう。
一説に、饒速日伊勢津彦であると云う。

Wikipedia 伊勢津彦 2021年7月転写
同説ではその他別名(櫛玉命)や世代関係(神武一世代前)など諸要素からも伊勢津彦神こそ邇芸速日命と同神とされ、東国へ逃亡したのは実際は伊勢津彦神の子に当たる神狭命とされる。

伊勢国風土記逸文が記す伊勢津彦は、神武の勅名を受けた天日別に「汝國獻於天孫哉(汝の国は天孫に献じる哉)」と問われて断るが、天日別が兵を整えたので恐れて「吾國悉獻於天孫(吾の国は悉く天孫に献じる)」と告げた。その夜、大風を起こし海を波立て日のように光りながら東へ去った。

小文字で「近令住信濃國(近く信濃国に住ま令める)」とある。
松本盆地南部には三世紀末の築造と目される弘法山古墳前方後方墳)がある。前方後方墳の発祥は伊勢湾沿岸と考えられている。

岩波文庫 風土記 昭和12出版 上記デジタル書籍より文字起こし
伊勢國風土記云 夫伊勢國者 天御中主尊之十二世孫 天日別命 神倭磐余彥天皇 自彼西宮征此東州之時 随天皇 到紀伊國熊野村 于時 随金鳥之導 入中州而到於菟田下縣 天皇 勅大部日臣命曰 逆黨駒長髄 宜早征罰 廼亦 詔勅天日別命曰 國有天津之方 宜平其國 卽賜標劒 天日別命 奉勅 東入數百里 其邑有神 名曰伊勢津彦 天日別命問曰 汝國獻於天孫哉 答云 吾覓此國 居住日久 不敢聞命矣 天日別命 發兵欲戮其神 于時畏伏啓云 吾國悉獻於天孫 吾敢不居矣 天日別命令問云 汝之去時 何以爲驗 啓曰 吾以今夜 起八風吹海水 乘波浪將東入 此則吾之却由也 天日別命整兵窺之 此及中夜 大風四起 扇擧波瀾 光耀如日 陸國海共朗 遂乘波而東焉 古語云神風伊勢國常世浪寄國者 蓋此謂之也 伊勢津彦神 近令住信濃國 天日別命 懐築此國 復命天皇 天皇大歡 詔曰國宜取國神之名號伊勢 卽爲天日別命之村此國 賜宅地于大倭耳梨之村焉 或本云 天日別命 奉詔 自熊野村直入伊勢國 殺戮荒神 罰平不遵堺山川 定地邑 然後 復命橿原宮

(訳文:上記の岩波文庫風土記」のコマ番号144/291)

神渟名川耳のエピソードと天日別のエピソードは、饒速日勢を畿内から排除したという点で共通する。
しかし物部氏の祖である饒速日を淡路勢が排除する理由が無い。しかも逃亡先が久比岐と関係が深い科野ときては、違和感しかない。

どちらも、同じ出来事を元にした虚偽の作り話ではなかろうか。記紀神話には饒速日勢を矮小化させたい意向が働いているように思う。

天日別は伊勢中臣氏の祖だ。
そして、物部氏石上神宮で祀る韴霊剱を武甕槌の所有物とする記述が神武紀にあるが、杵築大己貴の国譲りの主力は経津主のほうであると、国譲り神話の章で述べた。武甕槌は、中臣氏から分立した藤原氏が、大和の春日大社で経津主や祖神の天兒屋とともに祀る。意向が誰のものかは言うまでもなかろう。

神武[1]紀戊午年 夏 六月乙未朔丁巳
天照大神謂武甕雷神曰 夫葦原中國猶聞喧擾之響焉 聞喧擾之響焉 此云左揶霓利奈離 宜汝更往而征之 武甕雷神對曰 雖予不行 而 下予平國之劒 則國將自平矣 天照大神曰 諾

天照大神は武甕雷神に謂い曰く 夫れ葦原中国に猶も喧擾(けんじょう、騒がしい)の響きを聞く焉 聞喧擾之響焉 此れ云う左揶霓利奈離 汝が更に往きて之を征するが宜しい 武甕雷神は対し曰く 予が行かずと雖も 而 予が国を平らぐ之剱を下す 則ち国は将に自ずと平がん矣 天照大神は曰く 諾

欠史八代

大彦が初代神武天皇であり、武渟川別が第二代綏靖天皇なので、第三代から第九代までは否定する。しかし無意味な名前を並べたわけではないと思う。
和風諡号に含まれるキーワードから連想される人物を以下に記す。

第三代安寧天皇 磯城津彦玉手看天皇
磯城」から、弟磯城(味耜高彦根
第四代懿德天皇 大日本彦耜友天皇
「耜」の「友」から、天稚彦(兄磯城
第五代孝昭天皇 觀松彦香殖稲天皇
「観松彦」を名前に含む「観松彦色止」が後裔にいることから、事代主
第六代孝安天皇 日本足彦國押人天皇
「国押」が「国牽」と対になることから、事代主と丹波大己貴の祖であり葦原醜男の義父である越前素戔嗚(八千矛)
第七代孝霊天皇 大日本根子彦太瓊天皇
「太瓊」が勾玉でムジナの腹から八尺瓊勾玉が出たエピソードから、丹波大己貴
第八代孝元天皇 大日本根子彦國牽天皇
「国」を「牽く」で国引き神話から、杵築大己貴
第九代開化天皇 稚日本根子彦大日々天皇
「日々」から、饒速日伊勢津彦

三代から九代までは皇統の血筋ではないものの、ヤマト建国神話の主役級といえる重要人物が並んでいる。この並び順は以下のようにグループ分けできる。

神武[1]と綏靖[2]が父子。
安寧[3]と懿徳[4]が磯城氏。
孝昭[5]と孝安[6]と孝霊[7]と孝元[8]が大国主
開化[9]で神武に戻る。

孝霊[7]について補足

ムジナの腹から八尺瓊勾玉が出たエピソードは垂仁紀にある。

垂仁[11]紀八十七年春二月丁亥朔辛卯 昔
昔 丹波國桑田村有人 名曰甕襲 則甕襲家有犬 名曰足往 是犬 咋山獸名牟士那 而 殺之 則獸腹有八尺瓊勾玉 因以獻之 是玉 今有石上神宮也

昔 丹波国桑田村に人有り 名は曰く甕襲 則ち甕襲家に犬有り 名は曰く足往 是犬 牟士那なる名の山獸に咋える 而 之を殺す 則ち獸の腹に八尺瓊勾玉有り 因て以て之を献じる 是玉 今は石上神宮に有る也

孝昭[5]について補足

観松彦色止は、別名に天八現津彦などがある。

孝昭(觀松彦香殖稲)の皇后は尾張氏祖の世襲足媛であり、尾張氏祖の高倉下は越中東部の海人族だ。
また、観松彦色止の祖である事代主は越前素戔嗚(八千矛)の子孫だ。

越前には四隅突出墳の小羽山30号墓があり、越中婦負郡にも杉谷4号墳などが確認されている。2021年7月時点で北陸の四隅突出墳はこの二地域のみ。

山陰から導入された墓制だが、小羽山より婦負郡のほうが独自色が強いとの指摘がある。山陰から小羽山、小羽山から婦負郡へ伝播したのではなかろうか。

6332_2_富山県婦中町千坊山遺跡群試掘調査報告書 :2/37(109ページ)
受容当初は、福井県では山陰の強い影響が窺えるが、千坊山遺跡群では影響を受けつつも伝統的な周溝墓の形態を踏襲した四隅を掘り残すタイプとして受容しており、当初から在地的様相を強く持つものであった。
現段階資料では北陸内部での四隅突出型墳丘墓をシンボルとする首長連合は形成されておらず山陰対北陸一地域の首長間交流にとどまる。地域首長の対外的政治方策の最善の後ろ盾として造営され、それゆえに単発的であり北陸伝統の埋葬習俗を改変することなく墳形のみが強調されたと分析している(前田1995)。