天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第九章 崇神非実在説

前回の要点:
淡路の大彦を夫にした久比岐の女性が武渟川別を生む。
大彦が初代神武天皇で、武渟川別が第二代綏靖天皇(神渟名川耳天皇)。
椎根津彦嫡流の久比岐青海氏から分家して近畿へ移住した人々が倭氏。
饒速日伊勢津彦であり、科野へ移住した。
第三代安寧天皇から第九代開化天皇までは神武(大彦)の子孫ではないが、ヤマト建国神話で活躍した実在の人物が列記されている。

四道将軍

武埴安彦討伐は国見岳八十梟帥討伐であり、四道将軍の大彦は神武、武渟川別は綏靖、吉備津彦は吉備の首長、丹波道主は丹波の首長と考える。

吉備津彦山陽道平定と丹波道主の丹波道平定は、は自国の安定と発展を図ったにすぎないだろう。大彦の北陸道平定は武埴安彦討伐が本来の目的だろう。
そして武渟川別東海道平定だが、東海道は伊勢・尾張を介して畿内との交流が既にあったと思われる。よって本来の目的は関東沿岸だったと考える。

千葉県市原市にある神門5・4・3号墳は、3世紀半ば築造の前方後円墳と目されている。市原市の辺りは上海上国造か菊麻国造と思われ、どちらも成務[13]朝の任命で天穂日後裔だ。

神門5号墳 概要 2021年9月転写
これら3基の古墳から出土した土器に、在来の土器に混じって、近畿・東海・北陸地方の系譜をもつ土器が数多く含まれることから、外来的な要素の強い古墳としても注目されている。
先代旧事本紀巻十 国造本紀
海上国造
志賀高穴穂朝 天穂日命 八世孫忍立化多比命 定賜国造
菊麻国造
志賀高穴穂朝 无邪志国造祖兄多毛比命 兒大鹿国直 定賜国造

古事記は、大彦と武渟川別会津で合流したと記す。
高志深江は東北系土器が出土するなど東北と交流していた痕跡があり、阿賀野川阿賀川)で結ばれている会津には4世紀中頃築造の前方後円墳と目される大塚山古墳がある。

だが、大彦は開化[9]世代なので4世紀では遅い。よって現状では、会津までは行ってないだろうと思われるが、今後、新たに痕跡が発見される可能性はある。

ちなみに2021年現在、久比岐に一基、高志深江に一基、古墳時代前期の築造と見込まれる前方後円墳の発見が公表されている。

出雲振根

出雲振根の留守中、神宝の貢上を天皇に求められた振根の弟の飯入根は皇命に従う。これに腹を立てた振根が策を弄して飯入根を殺害した。天皇武渟川別吉備津彦を遣わして振根を討たせた。

瀬戸内勢と久比岐勢が出雲に圧力をかけ、出雲内部では恭順か抵抗かで意見が割れたと解釈できる。これは丹波大己貴の国譲りにまつわるエピソードだろう。
丹波には協調派と対立派がいて、一枚岩ではなかったと考える。

出雲振根が弟を殺害するために用いた策は、古事記の倭武が出雲建を討伐する際に用いた策と酷似する。よって日本武(倭武)は、出雲振根を含む対立派を象徴する存在と見做す。景行[14]紀の日本武の活躍は、対立派優勢になった丹波勢の事績だろう。

日本武と両道入姫命(垂仁[11]皇女)のあいだの子が仲哀[14]だ。
ただし、誕生年の問題が指摘されている。

wikipedia 両道入姫命 2021年7月転写
記紀ともに一致して記載している仲哀天皇の享年から計算できる生年(成務天皇18年)が日本武尊の死去から38年後にあたるという矛盾を抱えており、日本武尊仲哀天皇、そして両者をつなぐ存在である両道入姫命が本当に実在していたかどうかは不明である。

日本武は熊襲を討伐した。仲哀は熊襲討伐を試みたが病死した。
どちらの九州侵攻も、対立派が優勢になった丹波勢の事績と考える。

丹波勢は、丹波道主の娘の日葉酢媛が皇后になった垂仁の頃から隆盛し、仲哀庶子の忍熊王が武内宿祢と武振熊(和珥臣祖)に討伐されて衰退する。

仁徳[16]紀が記す両面宿儺

武振熊は忍熊王討伐に参加したと神功[14.5]紀に記されるほか、仁徳[16]紀には両面宿儺を討伐したとある。世代数からみて武振熊は一人ではないだろう。

仁徳[16]紀六十五年
六十五年 飛騨國有一人 曰宿儺 其爲人 壹體有兩面 面各相背 頂合無項 各有手足 其有膝而無膕踵 力多 以輕捷左右佩劒 四手並用弓矢 是以 不隨皇命 掠略人民爲樂 於是 遣和珥臣祖難波根子武振熊 而 誅之

六十五年 飛騨国に一人有り 曰く宿儺 其の為人(ひととなり) 壱の体に両面有り 面は各(おのおの)相背く 頂を合わせ項(うなじ)無し 各に手足有り 其れに膝有りて膕(ひかがみ、膝裏)も踵も無し 力は多い 軽捷(けいしょう、身軽で素早い)を以て左右に剱を佩く 四手は弓矢を並べ用いる 是以 皇命に隨わず 人民を掠略(りょうりゃく)し楽しみと為す 於是 和珥臣祖の難波根子武振熊を遣わす 而 之を誅する

世代を超えて武振熊の名を用いているのは、両面宿儺討伐が忍熊王討伐と同じ目的だからではないかと推測する。目的とはつまり丹波勢の排除だ。

飛騨は越中の南方にあり、先代旧事本紀巻十の国造本紀は成務[13]のころに尾張連の祖を飛騨国造に定めたと記す。越中から高山盆地・下呂を通り東海の尾張へ通じる道が存在したと考える。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
斐陀國造
志賀髙穴穂朝御世。尾張連祖瀛津世襲命 _大八椅命 定賜國造

越中東部には翡翠海岸があり、尾張氏祖の高倉下は久比岐青海氏祖の椎根津彦と従兄弟だ。両地域は3000メートル級の立山穂高連峰を有する飛騨山脈に隔てられている。この地域特性を、四手二面の姿で表したのではなかろうか。

両面宿儺とは、翡翠の産地である越中東部と久比岐に入り込んだ丹波の血筋と推測する。おそらく丹波と婚姻関係を結んでいた椎根津彦嫡流の青海氏はこのとき消失したのだろう。

のちに、ヤマトの中枢から排除した丹波勢の祟りを恐れて、和珥氏らが大物主として祀るようになったと考える。その祭主である三輪氏は久比岐が受け入れた丹波の血筋だから、大田田根子は媛蹈韛五十鈴媛の同族とされているのだろう。

和珥氏

和珥氏は志賀島阿曇氏に近しい氏族とする説がある。
九州を攻撃した丹波氏を武振熊が討伐しているので、あり得ると思う。

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Wikipedia「和珥氏」より抜粋・転写
和珥氏族は孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(天押帯日子命)から出たと称しているが、この天足彦国押人命という名は実体が殆ど無いものであり、和珥氏族の実際の上祖は天足彦国押人命の子とされる和邇日子押人命であったと考えられる。

だがしかし。
孝昭[5]は事代主、孝安[6]は越前素戔嗚、開化[9]は饒速日と推測した。
推測に基づいて系図をみると、許々止呂は長髄彦に該当しそうだ。兄磯城磯城や兄猾弟猾のように、対立派の長髄彦にも協調派の弟(彦国姥津)がいたのかもしれない。

武振熊の活躍が三世代に跨ぐことや、武振熊以前も世代数が足りないことを考慮すると、丹波を討伐するために近畿へ侵攻してきた九州の軍勢が武振熊であり、衰退気味だった地元の和珥氏がこれを受け入れ、融合した可能性があるだろう。

少彦名と大物主

越前素戔嗚の嫡流である丹波氏が、大物主と推測する。
よって、もとは太陽信仰の聖地だったと思われる三輪山の祭神を大物主にすり替えたのは、早くとも仁徳[16]より遡らないと考える。

このあたりの事情を抽象的に描いた神話が、神代上第八段(八岐大蛇)一書第六なのだろう。

大国主と力を合わせ国造りした少彦名は常世鄕へ行ってしまった。一人きりで国を治める不安をこぼす大己貴のもとへ海を照らす神光が来て、国を平らげたのは吾があってこそと言い、誰何されては汝の幸魂奇魂と名乗り、坐したい所を問えば御諸山(三輪山)と答えた。大己貴は初めて少彦名に出会ったとき、掌に置いて弄び、頬を齧られた。この小さな人の素性を天に問うと高皇産霊が、指の間より漏れ墮ちた我が子を愛で養うようにと云った。

少彦名は高皇産霊の子と日本書紀に記されるが、神皇産霊を祖とする天日鷲と同一と考えられている。

wikipedia 天日鷲 2021年7月転写
新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連、美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲神の子である天羽槌雄神鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことから少彦名神天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天背男命(天湯川田命)ー天日鷲神少彦名神)ー天羽槌雄神(建日穂命)ー波留伎別命」となる。

先代旧事本紀巻十の国造本紀は、紀伊/神武[1]朝・石見/崇神[10]朝・吉備中縣/崇神[10]朝・葛津立/成務[13]朝・淡道/仁徳[16]朝を、神皇産霊の後裔と記す。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
紀伊國造
橿原朝御世 神皇産霊命 五世孫天道根命 定賜國造
石見國造
瑞籬朝(崇神)御世 紀伊國造同祖蔭佐奈朝命 兒大屋古命 定賜國造
吉備中縣國造
瑞籬朝御世 神魂命 十世孫明石彦 定賜國造
葛津立國造
志賀髙穴穂朝御世 紀直同祖大名草彦命 兒若彦命 定賜國造
淡道國造
難波立津朝御世 神皇産霊尊 九世孫矢口足尼 定賜國造

紀伊国造の紀氏は日前神宮・国懸神宮にて、天岩戸隠れの折りにつくられた八咫鏡(一書第三)と日矛(一書第一)を祀る宮司を代々受け継いでいる。逐降の諸神が瀬戸内の勢力であり、その舞台は高志と思われることから、神皇産霊は瀬戸内か高志に関連する神と推測する。

少彦名は、瀬戸内勢や高志勢が在地勢力と関わったことで国づくりが進んだことを表し、大物主は、丹波勢が瀬戸内勢や高志に代わり、近畿を席巻したことを表すのだろう。

この逸話の大己貴は、杵築大己貴と考える。
大物主は「如吾不在者 汝 何能平此國乎(もし吾が在らずは 汝 何ぞ能く此国を平らぐ乎)」と恩着せがましく言ったが、直接的には何もしてない。丹波は山陰出雲の海を通過するだけだったのだろう。

崇神非実在

三輪山における大物主の祭祀は丹波勢が衰退して以降と思われる。よって崇神の事績とは考えにくい。また天照と倭大国魂の祭祀は垂仁[11]紀にも記述がある。

四道将軍はそれぞれ、吉備津彦は吉備の首長、丹波道主は丹波の首長、大彦は神武[1]、武渟川別は綏靖[2]なので、四道将軍の派遣はなかったと考える。

武埴安彦討伐は国見岳八十梟帥および越前素戔嗚と同一であり、その討伐は大彦や吉備津彦ら瀬戸内勢による一世代前の事績と考える。

崇神を「実在する可能性のある最初の天皇」とみる説が浸透しているが、その事績は借り物ばかりだ。よって崇神は実在しないと考える。崇神を存在させることで、畿内勢力が皇統を受け継いだように見せかけているのだろう。

大彦(神武)の跡を継いだのは子の武渟川別(綏靖)であり、その子が活目入彦(垂仁)と考える。

豊城入彦

前章にて、天日別と武甕槌の違和感、および藤原氏(中臣氏)の疑惑に言及した。 さらに国譲り神話の章では、古事記が記す建御名方と武甕槌の闘いが、関東を舞台にした科野勢と上毛野勢の争いである可能性を述べた。

上毛野勢である御諸別の祖は豊城入彦であり、その親は崇神と遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国荒河戸畔の娘)だ。これをもって荒河戸畔が帰順したと解釈するが、崇神が実在しなければ帰順してない可能性がでてくる。

対立軸はシンプルだ。
豊城入彦、八綱田(彦狭島)、御諸別ら一族は、長髄彦が討たれたあとも依然として淡路・久比岐の連合勢力と敵対していた。だから関東から科野を攻撃した。
饒速日勢は科野を援けるために伊勢を離れ、手薄になった伊勢を天日別が侵略した。

伊勢国風土記逸文は、伊勢津彦を排除する天皇の勅が天日別に下されたと記すが、おそらく虚偽だろう。

中臣氏祖の天兒屋は天岩戸神話でも忌部氏祖の太玉と並び活躍するが、これも太玉の活躍する場面に天兒屋を捩じ込んだとする説がある。国譲り神話の武甕槌と同じやり口とみていいだろう。

中臣氏は、饒速日勢や淡路勢とは一線を画す太平洋側の勢力ではなかろうか。
神武東征の序盤に天兒屋の孫である天種子が菟狭津媛を娶ったと記されるが、婚姻は事実でも、神武東征とは一切関係ない時期に結ばれたのではないかと思う。

「天兒屋」「武甕槌」「豊城入彦・八綱田・御諸別」の皇統への貢献は史実に反する虚偽であり、実際は敵対勢力だった可能性がある。
天兒屋は中臣氏の祖であり、武甕槌を祀る鹿島で中臣鎌足が生まれている。そして鹿島がある香取海は関東の玄関口だったと考えられている。

wikipedia 忌部氏 2021年9月転写
中央氏族としての忌部氏は、記紀の天岩戸神話にも現れる天太玉命を祖とする。現在の奈良県橿原市忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて中臣氏とともに古くから朝廷の祭祀を司った。「延喜式」にある祝詞には「御殿(おほとの)御門(みかど)等の祭には齋部氏の祝詞を申せ、 以外の諸の祭には、 中臣氏の祝詞を申せ」とあり、現在の中臣祭文とは別格であったことが窺える。
そのうち天太玉命忌部氏の祖、天児屋命が中臣氏の祖とされ、両氏は記紀編纂当時の朝廷の祭祀を司っていた。なお、記紀では天児屋命の方が天太玉命よりも重要な役割を担っているが、これは編纂当時の中臣氏と忌部氏の勢力差を反映しているとされる。逆に忌部氏側の『古語拾遺』ではその立場は逆転している。

御間城姫

日本書紀は、崇神とのあいだに子をもうけた女性を三名挙げる。
皇后の御間城姫は大彦の娘で、垂仁[11]ら五子を生む。
妃の遠津年魚眼眼妙媛は紀伊国荒河戸畔の娘で、豊城入彦ら二子を生む。
妃の尾張大海媛は尾張建宇那比の娘で、淳名城入姫ら三子を生む。

古事記も同じ三名だが、順番と子の内訳が違う。
一人目は遠津年魚目目微比売で、豊木入日子ら二子を生む。
二人目は意富阿麻比売で、大入杵・沼名木之入日売ら四子を生む。
三人目に御真津比売で、垂仁[11]ら六子を生む。

古事記が皇后を先頭に記さない例は開化[9]にも見える。
日本書紀は「伊香色謎・丹波の竹野媛・和珥臣の姥津媛」の順だが、古事記は「旦波の竹野比売・色許売命・丸邇臣の意祁都比売」の順で記す。

伊香色謎は饒速日勢であり、丹波はのちに淡路・久比岐と対立する。
皇后を差し置いて対立勢力の女性を先頭に記すことには、大国主のエピソードで上巻のほとんどを埋めた古事記のスタンスが表れているのだろう。

話を本題に戻す。
豊城入彦の母である遠津年魚眼眼妙媛以外の御二方、御間城姫と大海媛は出自から淡路・久比岐勢の味方勢力と考えられるので、夫は綏靖(武渟川別)だろう。

綏靖(武渟川別)と御間城姫は異母兄妹/姉弟と考える。

御間城姫は、古事記では御真津比売と記される。そして「ミマツ」と、同じ音で読む名前のパーツに「観松」がある。

前章にて、事代主後裔に観松彦色止がいることから、「観松彦香殖稲」の和風諡号を持つ孝昭[5]は事代主だろうと推測した。また孝昭皇后の世襲足媛が高倉下後裔の尾張氏であり、事代主が越前素戔嗚の子孫であることから、越中国婦負郡の四隅突出墳との関連を示唆した。

よって、婦負郡がある越中西部を治める首長の称号が観松彦・観松姫であり、事代主の子孫と推測する。御間城姫は、大彦と越中西部の女性のあいだの子だろう。

これは、綏靖皇后の五十鈴依媛を事代主の娘とする欠史八代紀の記述と合致する。

欠史八代紀 安寧[3]天皇
磯城津彥玉手看天皇 神渟名川耳天皇太子也 母曰五十鈴依媛命 事代主神之少女也

磯城津彦玉手看天皇(安寧[3]) 神渟名川耳天皇(綏靖[2])の太子也 母は曰く五十鈴依媛命 事代主神の少女(下の娘)也