天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

倭国大乱後、出雲は九州に平伏した

2020年12月現在、出雲瑪瑙をWeb検索すると多数の販売店がヒットする。そのほとんどが、朝廷へ献上していたことを出雲ブランドの裏付けとしてポジティブに受け止めておられるようだ。なので、少々言いにくいのだが。

小松市 フォーラム、シンポジウム等の資料ダウンロード フォーラム「日本海を行き交う弥生の宝石in小松」[PDF] 

:23/51  :4 玉つくりから見た地域間交流

さらに山陰では後期中葉から花仙山産碧玉が本格的に使用され始めるが、山陰以東に流通することはなかった。逆に弥生時代後期末から古墳時代初頭にかけては山陰から北部九州へ花仙山産碧玉を携えて工人が赴き、同碧玉を用いた管玉及び平所技法による水晶製玉類を一時的に生産した。

:39-40/51 :③弥生時代後期~終末期

 弥生時代後期になると、八日市地方遺跡が終焉を迎え、「菩提系碧玉」の流通が停滞するようになり、各地で代わりの石材を使った管玉製作が開始された。
 ――略――
 このように、各地で在地の石材利用が進む中、島根県松江市の花仙山産碧玉が管玉に利用されるようになる。この碧玉は硬質で、直接打法や施溝分割技法ではうまく割ることができなかったが、鉄製工具の普及によって、利用できる環境が整っていた。
 花仙山産の碧玉は、当初、鳥取県中・西部、島根県東部を中心に分布したが、弥生時代終末期から古墳時代前期前半になると、福岡県の城野遺跡や潤地頭給遺跡など北部九州にまで石材や製作技術が伝わる。弥生時代中期に北部九州で重宝された「菩提系碧玉」が、一定の空白期間を経て、弥生時代終末期には「花仙山産碧玉」に置き換わったと言える。

菩提系碧玉の産地は、石川県小松市の那谷町・菩提町・滝ヶ原町。
花仙山産碧玉の産地は、島根県松江市玉湯町

花仙山産碧玉のことを出雲瑪瑙と呼ぶが、碧玉に分類される。出雲に限らず、国内産で瑪瑙と呼ばれるものは、実は碧玉らしい。ただし瑪瑙も碧玉も二酸化珪素(SiO2)の結晶粒の集合体なので、なかには正真正銘の瑪瑙があるかもしれない。
八日市地方遺跡から出土した「メノウ製垂飾」は玉髄に見えるが、どうなのだろう?

小松市 重要文化財 八日市地方遺跡出土品

八日市地方遺跡が終焉を迎えた弥生後期には、倭国大乱が起きている。引用した小松市のテキスト[PDF]は明言を避けておられるが、菩提系から花仙山へ移行するあいだの「一定の空白期間」が倭国大乱にあたると考えられるだろう。
花仙山産碧玉が九州で利用され始めたのは大乱後からと考えられる。

九州は倭国大乱の勝者であり、出雲は敗者だ。
戦争が終わって交易が再開したなどと解釈したら、それはお花畑脳というものだろう。

上記引用文をシビアに解釈すると、産出量の大部分と工人を九州が押さえた、となる。花仙山産碧玉は、敗者出雲から勝者九州への貢ぎ物だったのだろう。

のちに大和の勢いが九州を上回った世の情勢に合わせ、納品先が大和朝廷に変わったのだろうと推測するが、それがいつのことか。ネット上では未だ資料を見つけられない。磐井の乱より後か前か、気になるのだが。

一応、フォローしておくと。
古代出雲の心情的には、大和朝廷へ献上することは九州へ貢ぐのとは違い、特産品を納品する程度の意識で、むしろ誇らしいと感じていた可能性もあると思う。

―――めのうメモ―――

二酸化珪素(SiO2)の結晶の玉石は顕晶質と潜晶質に分類される。
さらに潜晶質の玉石は玉髄・瑪瑙・碧玉に分類される。

顕晶質(ひとつの結晶体)は石英(クォーツ)。
石英(クォーツ)のうち、剣状の結晶の形状をしているものが水晶。

潜晶質(細かな結晶粒の集合体)のうち、
・半透明で模様のないものが玉髄(カルセドニー)。
・透明感があって縞模様のあるものが瑪瑙(アゲート)。
・透明感がないものが碧玉(ジャスパー、不純物20%以上)。

二酸化珪素の結晶化してないものは蛋白石(オパール)。
二酸化珪素は乾燥剤などに使われるシリカのこと。ガラスの主成分。
隕石の衝突により生成された天然ガラス(テクタイト)は宝石として扱われる。

鉱物の希少性を基準に云えば、翡翠と瑪瑙の差は段違い。

5世紀、畿内の九州勢は大和勢に屈した

越前から出雲勢を追いやった神逐により、中部日本海の青海氏、琵琶湖・淀川・茅渟海の息長氏、瀬戸内・玄界灘の吉備氏が繋ぐ交易路が完成した。

国譲り後ではないかと思うが、青海氏は高志深江に進出して青海郷(現在の加茂市)を開拓したと伝わる。ちなみに加茂の名は、青海神社の御由緒によれば、794年(平安遷都)に京都上賀茂・下賀茂神社神領になった際に御分霊を祭りはじめたことに由来するそうだ。

越後加茂青海神社 由緒 年表

京都上賀茂・下賀茂神社との縁は、大彦の妻になった久比岐の女性(倭迹々姫)が媛蹈韛五十鈴媛のモデルであることに因んでいるのだろう。(過去記事:綏靖[2]のモデルは武渟川別かもしれない

加茂の青海神社は、越後平野信濃川を挟んで弥彦神社の東南東20km余りの山裾にある。青海神社は弥彦神社に呼応する一面があるのだろう。
弥彦神社の祭神である天香山に例えられる個人は大彦だろうから、夫婦神である。

二社間の距離20kmは、香取海を挟んで13kmの鹿島神宮香取神宮と比べると少し遠いと感じるが、当時の越後平野が氾濫原性低地で、使いにくい土地だったことを考えれば妥当と思える。
ちなみに、青海神社から新津丘陵の山裾沿い北東13kmほどに古津八幡山遺跡がある。

新潟市 潟のデジタル博物館 潟の成り立ち

新潟市 国指定史跡 古津八幡山遺跡について

高志深江の開拓によって、青海氏と息長氏と吉備氏が繋ぐ交易路の東端が弥彦まで伸びた。西端は宇佐だ。
弥彦神社宇佐神宮は現在、二拝四拍手一拝を作法としている。
出雲大社も四拍手だが、おそらく別口だろう。

青海氏は椎根津彦の後裔であり、倭氏と近しい同族である。
九州勢に与する氏族だったが、この倭氏は履中[17]紀が記す住吉仲皇子の抗争(※)で大和勢に屈したと思われる。

この抗争について、日本書紀は住吉仲皇子の反逆の理由を色恋沙汰としているが、古事記皇位簒奪としている。
Wikipedia「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」によると、履中[17]は70才で崩御して、在位は6年(古事記は5年)と日本書紀に記されている。64才の色恋沙汰、そのうえ皇后とは一女を儲けただけなのに、在位6年のあいだに黒姫と二男一女を儲けた。

色恋沙汰の件は虚構だろう。
しかも虚構であることを見抜けるように配慮されているようだ。

住吉仲皇子には阿曇連濱子と倭直吾子籠が味方した。阿曇氏と倭氏は九州勢だ。
加えて、濱子が履中[17]にかけた追手は、淡路野嶋の海人であると名乗る。現代の地図では、舟木遺跡(淡路島)の北々西2kmほどの海岸沿いに淡路野島が見つかる。

履中[17]には平群木菟宿祢と物部大前宿祢と漢直祖阿知使主が味方した。平群木菟は武内宿祢の子、物部氏饒速日勢、東漢氏は渡来氏族であり、疑心暗鬼に陥った履中が籠った石上神宮は物部系の神社だ。

実際は、九州勢が推す住吉仲皇子と、大和勢が推す履中[17]の皇位争いだったのではなかろうか。

古事記は仲皇子が履中から皇位を奪おうとしたと書いている。だが日本書紀は、古事記の記述を採用しなかった。はたして履中は本当に皇太子だったのだろうか?
履中[17]は仁徳[16]の第1皇子であり、次代の反正[18]と允恭[19]は弟だ。末子相続と父子相続の慣習が崩れている。

いずれにせよ淡路の阿曇氏と倭氏は、この抗争に敗れた。
このあとの雄略[21]紀に、吉備氏の乱が記される。履中[17]から4代と数えると長い気がするが、履中[17]反正[18]安康[20]の治世は短いので、日本書紀の記述によれば、住吉仲皇子の件から64年後のことだ。

コトバンク 吉備氏の反乱

履中[17]の治世は5世紀前半、雄略[21]は5世紀後半と目されている。
この時期に、大和は九州の影響下から脱したと推測する。
そして継体[26]の御代に磐井の乱(527年)が起きて、大和は九州本丸と交戦した。

コトバンク 磐井の乱

6世紀初頭に、久比岐は玉造りをやめた。
大和が支配を強めていったことと無関係ではないように思うが、どうだろうか?

椎根津彦は久比岐の海人族

九州勢(大彦の氏族や尾張氏)の近畿入植はあったが神武東征はなかったと当ブログは考えている。皇統とされる橿原勢及び饒速日勢は、弥生後期の2世紀以前には大阪平野に根差していた在地勢力とみる。
そこへ九州勢が瀬戸内航路を開き、淡路島に住みついた。

だからといって神武東征の記述に意味がないとは考えない。
おそらく日本書紀は、虚偽の説話を創作する場合には、真実につながる暗示を織り交ぜている。

例えば、当ブログが奴奈川姫をモデルに倭迹迹日百襲姫が創作されたと考えるのは、崇神[10]紀(※)にある「天皇の姑」という、欠史八代[2-9]紀の系譜とは食い違う記述を根拠にしている。また、亡くなった姫を葬るための箸墓古墳を築造する人足がうたった歌が「越」を繰り返すことも、暗示の可能性があると思う。

飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂 ――大坂(おほさか)に 継(つ)ぎ登(のぼ)れる 石群(いしむら)を たごしに越(こ)せば 越しがてむかも

神武東征はフィクションだけれど、史実を仄めかす暗示が散りばめられている可能性が高いと思う。読み込んで考察する価値は大いにあるだろう。

神武一行は、
日本書紀(※)では、椎根津彦を引き入れたのち、菟狭で歓待され、11月に筑紫岡水門に着き、12月から安芸埃宮に滞在、翌年3月から吉備高嶋宮に3年滞在して、難波の奔潮を通過する。
古事記(※)では、宇沙で歓待され、筑紫岡田宮に1年滞在、阿岐多祁理宮に7年滞在、それから吉備高嶋宮に8年滞在して、椎根津彦を引き入れたのち、浪速の渡りを通過する。

五斗長垣内遺跡(淡路島)が2世紀の遺跡と目されることから、瀬戸内航路が開かれたのは1世紀末か2世紀初頭頃だろう。

崇神[10]紀と垂仁[11]紀に記される椎根津彦6世孫の市磯長尾市を基準に世代を数えると、椎根津彦は懿徳[4]か孝昭[5]の世代になる。
椎根津彦の叔父/伯父の天前玉の子が高倉下(※)で、同世代である。

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Wikipedia倭国造」より抜粋・転写

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Wikipedia尾張氏」より抜粋・転写

神武東征は無かった。
だが懿徳[4]か孝昭[5]の頃、天火明に例えられる尾張氏の祖先と大彦の祖先が淡路島に住みついた。

孝昭[5]の皇后が尾張氏出身の世襲足姫であることから橿原勢は、入植したばかりの九州勢を友好的に受け入れたと考えられる。
一方、饒速日勢は敵対したと考えられるが、九州勢に対してだけなのか、もともと橿原勢と対立していたのかは分からない。欝色謎が孝元[8]の皇后になっているので、孝霊[7]か孝元[8]の頃に九州勢を受け入れたと推測する。

大阪平野抵抗勢力が居たこと、淡路島に遺跡があることから、淡路島が瀬戸内航路の東端であり、大彦の氏族は淡路島に居たと推測する。
つまり、九州勢が明石海峡を通る必要はなかった。

古事記では、吉備国を出航したのちに椎根津彦が道案内として加わる。
だが終着地が淡路島であり、明石海峡を通らないとなると、道案内が必要だったとは思えない。

日本書紀では、日向国を出立したのちに豊予海峡椎根津彦が加わる。こちらは瀬戸内航路全域を道案内したことになる。だが九州から来たのであれば、椎根津彦も天火明の条件を満たしてしまう。(前回記事:天火明は瀬戸内航路の開通まもなく入植した九州人を指す

椎根津彦が道案内したというのは暗示であり、史実ではないだろう。
おそらく、淡路島に入植していた九州勢が、大和と積極的に関わるようになった原因を、椎根津彦の氏族が持ち込んだことを示している。
椎根津彦の働きかけで、淡路島の九州勢が大阪平野に入った。

大和と良好な関係を築いた九州勢は、淀川を北上して、越前で神逐を行った。
椎根津彦の氏族が、越前から出雲勢を追い払うように立ち回ったのだろう。よって椎根津彦は、日本海航路が不穏になったことで不利益を被った氏族と考えられる。

神逐で追い払われた素戔嗚は出雲へ行った。
それで一旦は落ち着いたのだから椎根津彦の氏族は、山陰沿岸を通る航路から瀬戸内を通る航路に切り替えても利益を得られたと思われる。
よって椎根津彦の活動域は中部日本海沿岸地域が想定できる。

椎根津彦の本拠地は久比岐だろう。

椎根津彦の氏族の一部が久比岐から、大彦の妻になった久比岐の女性(倭迹々姫)を伴って近畿に移り住んだ。そして倭国造に任じられたと推測する。

椎根津彦の後裔には、倭国造と久比岐国造と明石国造が(※)いる。
最も古い任命は神武[1]朝の倭国造で、次いで崇神[10]朝の久比岐国造、応神[15]朝の明石国造の順だ。

だが、繰り返すが神武東征は無かった。
磐余彦(神武)なる個人は存在せず、安寧[3]以降の橿原勢が行った近畿平定の事跡と、九州から入植した氏族である大彦の事跡を合わせて創作した架空の人物であると、当ブログは考える。

椎根津彦の氏族を倭国造に任じたのは、おそらく大彦だろう。大彦は開化[9]世代だ。
最初の倭国造は、4世孫の飯手足尼と推測する。
だから3世孫までは付かない「スクネ(足尼・宿祢)」の官名が、4世孫以降には付くのではなかろうか?

大彦は九州系氏族だから、九州の利害を考えて行動したはずだ。当時の倭国造とは、大阪平野に滞在する九州勢の外交官的存在だったのではないかと思う。
背後で大彦が睨みを利かせていたから、大和は受け入れざるを得なかったのだろう。

そして6世孫の御戈が久比岐国造に任じられる。
任命したのは大彦か武渟川別か、それとも崇神[10]か。崇神[10]は、大彦と久比岐の女性(倭迹々姫)の娘であろう御間城姫を皇后にしている。崇神に久比岐をどうこうする権限は無くとも、皇后には有ったかもしれない。

個人的見解だが。
余所者に大きな顔をさせてやるほど古代の久比岐人がお人好しの集団だったとは思わない。御戈が久比岐出身氏族でなければ受け入れられなかったはずだ。

その点、8世孫の都弥自宿祢が明石国造に任命されたのは応神[15]の御代だ。
俗に、三代住み続けないと京都人ではないという。4世孫から近畿に住んでいるのだから、8世孫は立派な近畿人と云えよう。