天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

一書第四と第六の天孫降臨

日本書紀神代下、第九段一書第三以降は国譲りを記さない。
このうち瓊瓊杵降臨の場面を描くのは一書第四と第六のみ。

一書第四の特徴
・高皇産霊が瓊瓊杵を降ろす。天照は登場しない。
・随伴は天忍日(大伴連遠祖)と天槵津大来目(来目部遠祖)。
・事勝国勝長狭(亦名鹽土老翁)と出会い、国をもらう。
木花開耶姫は登場しない。

一書第四は鹽土老翁から国を譲り受けている。
大己貴の国譲りに続けて天孫降臨を記す本伝、書一、書二とは別の出来事であり、瓊瓊杵の正体も別人と考えられる。

鹽土老翁は第十段(海幸山幸)において、山幸に海底へ行くようアドバイスする。
神武紀においては東征前の神武に東に、東の良い土地に饒速日がいると教える。
よって鹽土老翁は太平洋側の神と推測する。

wikipediaシオツチノオジ」によれば、鹽土老翁は猿田彦と同一視できるという。
猿田彦は一書第一にて、伊勢之狭長田五十鈴川上に至ると記される。

wikipediaシオツチノオジ > 伝承
先に述べた通り、江戸時代には塩土老翁神猿田彦、事勝国勝、岐神、興玉命、太田命と同体異名の神とされたことがあったが、特に猿田彦神との関係性について、鹽竈神社末社の鼻節神社(宮城県七ヶ浜町)の祭神が猿田彦神であること、また神田明神末社の籠祖神社(現・合祀殿)では猿田彦大神と鹽土翁神が共に祀られていることなどから、塩土老翁神猿田彦神と関係の深い神であるということが指摘される。

伊勢外宮に豊受姫遷座したのは雄略[21]とされる。
雄略の母親は息長氏であり、古事記の系譜で先祖を辿ると穂積氏の弟橘媛(日本武の妃)に辿りつく。よって雄略[21]は唐古鍵系、つまり天照の系譜である。

次世代の清寧[22]は葛城韓媛が生んだ雄略[21]の皇子だ。
葛城氏は纏向系、つまり素戔嗚の系譜である。

おそらく一書第四の瓊瓊杵の正体は清寧[22]だ。
木花開耶姫が登場せず、子の記述がないのは、清寧に子が無いからだろう。

雄略[21]の泊瀬朝倉宮は、奈良盆地の際の山裾にある。
そこから5キロほど西、神武[1]の磐余橿原宮に寄せて清寧[22]の磐余甕栗宮がある。

雄略[21]と清寧[22]の宮

雄略[21]の泊瀬朝倉宮は、グーグルマップによると、伝承地が3か所ある。
ほかの2か所は、東の山をもう少し上った場所にある。

瓊瓊杵の父である天忍穂耳が降臨しない経緯は、本伝と書一と書二に記される。
書四の瓊瓊杵こと清寧[22]の父である雄略[21]の宮が奈良盆地にあってはおかしいと考え、記紀編纂後の人々が盆地から遠ざけたのではなかろうか。

清寧[22]は、5世紀後期頃の人物と思われる。
猿田彦が登場する書一の国譲りは、4世紀はじめの纏向衰退を描いている。
よって書四の事勝国勝長狭(鹽土老翁)は、書一の猿田彦の子孫と考える。

ただし本伝の事勝国勝長狭と、書四の事勝国勝長狭(鹽土老翁)は別人と考える。
次に、一書第六。

一書第六の特徴
・天火明は瓊瓊杵の兄。
・高皇産霊の台詞「昔遣天稚彦葦原中国……云々」
・高皇産霊が瓊瓊杵を降ろす。天照は登場しない(天忍穂根は冒頭に登場)
木花開耶姫と出会い、二子(火酢芹と火折、亦號彦火火出見)を生む

瓊瓊杵の兄である天火明は瀛津世襲の一族であり、北陸地方の神だ。
高皇産霊が「昔」という天稚彦は、3世紀後期ごろの懿徳[3]に比定した。書六の天孫降臨は、そこから数世代が経過した年代の出来事と考える。

北陸出身の天皇というと、6世紀前期ごろの継体[26]だろう。
継体の母は余奴臣祖の阿那尓比弥であり、余奴臣は越前国の有力者と考えられる。
誓約の五男神が象徴する地域は、天忍穂耳を北陸方面、天穂日を山陰方面、天津彦根を淀川大阪湾、活津彦根を東海方面、熊野櫲樟日を紀伊沿岸部に比定した。
血筋ではなく出身地域から、継体[26]は書六の天忍穂耳に推定できる。

おそらく継体[26]の子のうち、子を儲けた宣化[27]か欽明[28]のどちらかが、書六の瓊瓊杵だろう。

第九段(天孫降臨)本伝は火闌降を隼人の祖と記し、第十段(海幸山幸)書二は火酢芹を隼人の祖と記す。ほかの日本書紀の逸話は、隼人との関係を記さない。
第九段一書第六の瓊瓊杵の子に隼人の祖はいないと解釈できる。

書六は北陸地方の正当性を描いていると見える。
そして継体[26]の系譜は、蘇我系の聖徳太子に関する記述が多い上宮記逸文による。
もとは、北陸三か国の国造である蘇我氏の正当性を示す逸話ではなかろうか。

対して書四は、伊勢に正当性を作り出そうとしているようだ。
天智の系譜を正当化するための逸話だろう。

ちなみに。
書三は瓊瓊杵の子(火明、火進(火酢芹)、彦火火出見)の誕生の場面のみ。
書五は瓊瓊杵の子(火明、火進、火折、彦火火出見)の誕生の場面のみ。
書七は瓊瓊杵の系譜の別パターンを簡潔に記す。
書八も瓊瓊杵の系譜の別パターンを簡潔に記す。

――― 告知 ―――

動画の新シリーズ移行に連動して、当ブログも仕切り直す予定です。
右往左往してきた過去の自説変更の変遷は収蔵庫に蓄積しておきます。

youtube動画

新作にしてシリーズ最終回です。

#0015
スサノオ 山陰の大己貴 月読 八岐大蛇 ほか

Happy birthday ATOM.

――― 訂正 ―――

今回も大規模に持論を改定しました。大きな変更は、
武内宿祢は紀伊勢。
伊香色謎を葛城氏/尾張氏/和珥氏の系譜につらなる。
大物主を唐古鍵と纏向の融合した存在。
古事記もある程度は年代を揃えてある。
等です。ほかにも幾つか変更があります。

穂積氏と尾張氏と息長氏

日本書紀前半の構成の詳細版を作成中。

日本書紀前半の構成 詳細

懿徳[4]と仲哀[14]は早逝してるので短くした。
ヤマト大王は女系継承との推測から、母系先祖で色分けした。

神功皇后は父系の「息長」ばかり吹聴されるが、母系は「葛城」である。
母の名は「葛城高顙媛」、母系の曾祖母の名は「当麻之咩斐」という。
垂仁7年の逸話に登場する「当摩蹶速」のいた当麻邑は、wikipediaによると現在の葛城市にある。

日本書紀 垂仁7年
七年秋七月己巳朔乙亥 左右奏言 当麻邑 有勇悍士 曰当摩蹶速 其為人也 強力以能毀角申鉤
wikipedia 当麻蹴速
地元の奈良県葛城市當麻町には、蹴速の屋敷跡があると言う地元伝承が残っている。

因みに。
当麻蹶速野見宿祢角力は、古事記の国譲りが記す建御名方と建御雷の相撲に通じる。
葛城国造剣根の祖の高皇産霊が《信越勢》であることの証左のひとつだ。

話を戻して。
欽明[29]敏達[30]の母系先祖は和珥氏である。
よって敏達[30]までは女系継承と考える。

続く蘇我系の用明[31]崇峻[32]推古[33]は母方の祖母が不明のため、女系か男系か判別不可能。
舒明[34]は母系先祖が伊勢の豪族であるため男系、もしくは実際には即位してなかったものを、天智[38]天武[40]の父だからと日本書紀編纂時にねじ込んだか。
皇極斉明[35,37]孝徳[36]の母方の祖母も不明。

丁未の乱(587年)山背大兄王襲撃(643年)乙巳の変(645年)などは女系男系が争点ではないか?

蘇我蝦夷の母は物部守屋同母妹の布都姫であり、女系継承ならば蘇我宗主には不適格である。
蘇我入鹿の母は物部守屋の姪の物部鎌姫であり、女系継承ならば蘇我宗主には不適格である。
女系継承ならば寧ろ、蘇我蝦夷は物部(弓削)守屋の正当な後継者になりえる。
天孫本紀にて物部鎌姫は「為参政奉斎神宮」とあり、入鹿の母は物部宗主と思われる。

守屋は蝦夷の父馬子と対立、丁未の乱(587年)に敗れる。
守屋と布都姫の母(蘇我蝦夷の母方の祖母)は弓削倭古の女の阿佐姫。
守屋は「弓削大連」を称し、子孫は弓削氏を名乗る。
宇佐八幡宮神託事件(769年)の道鏡は、物部守屋から始まる弓削氏である。

先代旧事本紀物部氏系図は、欝色雄・欝色謎・伊香色雄・伊香色謎など穂積氏を取り込んでいる。
瀛津世襲世襲足媛・建額赤(津守氏)などは尾張氏系図に取り込まれている。
先代旧事本紀の設定では、欝色雄祖先の宇摩志麻治と瀛津世襲祖先の天香語山は異母兄弟である。

記紀の神は原則として《地域勢力》であり、兄弟設定の背景には、勢力間の密な交流(因縁)があると考える。
欝色雄や伊香色雄の穂積氏は唐古鍵の首長氏族で、瀛津世襲尾張氏(葛城氏)は纏向の首長氏族ではなかろうか?

乙巳の変(645年)、蝦夷入鹿父子の死をもって唐古鍵の宗家(女系)が終焉に至ったのでは?
だから天智[38]の諱は「葛城」というのでは?
天皇になろうとした道鏡は、唐古鍵勢力の宗主の末裔を自負していたのではなかろうか。

――― 2024/02/06 追記 ―――

息長氏/丹波/山代は、短絡に余りものを纏めたのではなく、神功の男系先祖に繋がりを見いだせるから纏めた。
また継体[26]の女系は山代、男系は息長氏と穂積氏に繋がる。

神功先祖
仲哀[14] 安康[20] 雄略[21] 継体[26]

葛城氏/瀛津世襲尾張氏/和珥氏は、言うまでもなく女系の同族である。
おそらく《纏向の宗家》だろう。
対する《唐子鍵の宗家》は穂積氏/物部氏/息長氏と思われる。

日本書紀でも古事記でも、八岐大蛇を退治した素戔嗚は草薙剣を天照に献上する。
草薙剣は別名を天叢雲剣という。天孫本紀が天香語山の子の名を天村雲と記すことから《纏向の宗家》を象徴するものと推測する。
また、古事記須佐之男は《纏向》、天照は《唐古鍵》に相当すると考える。

おそらく八岐大蛇退治のスサノオは、4世紀中期~後期の纏向勢力だろう。
八岐大蛇は唐古鍵勢力である。
天叢雲剣が八岐大蛇の尾にあるという描写は、丹波勢が纏向宗家出身の孝霊[7]を管理下に置いていたことを表すのだろう。孝霊の黒田庵戸宮は唐古鍵遺跡の西2kmほどにある。
天叢雲剣を天照に献上するという描写は、山陰勢の孝元[8]から穂積氏の開化[9]に代替わりしたことを表すのだろう。

――― 2024/02/08 追記 ―――

鹿は丹波の象徴と考えていたが、厳密には《唐子鍵の象徴》ではなかろうか。
入鹿の名前も唐古鍵の末裔を意識してのことでは?
対する《纏向の象徴》は鳥だろう。

――― 2024/02/10 追記 ―――

ハツクニシラススメラミコトの異名をもつ神武[1]と崇神[10]が時系列の折り返し点になっている。
もう1つ、小規模な折り返しが仲哀[14]と仁徳[16]の間にあり、そこは神功摂政と応神[16]である。

おそらく、漢風諡号の『神』の文字は《時系列の先頭》を意味する。

――― 2024/02/12 追記 ―――

天智[38]の父である舒明[34]の父系先祖は伊勢の豪族だ。
ヤマト建国神話における伊勢は、雄略[20]が伊勢外宮に豊受姫遷座したくらいしか縁がない。
事実上、天智[38]から遡れる男系の皇祖だから、伊勢で天照を祀っているのだろう。

おそらく天智[38]は女系男子として即位している。
舒明[34]は、実際には即位してない。
地方豪族にすぎない父親の血筋が、天智[38]の即位を遅らせた要因だろう。

記紀が、皇位継承を男系と偽ったから、辻褄をあわせて伊勢が皇祖神を祀ることになった。
建国の神を拝むなら、伊勢より相応しい場所は多くある。

また、継体[26]も実際には即位してないと推測する。
継体[26]は、継承権のある尾張目子媛とのあいだに儲けた安閑[27]宣化[28]を即位させ、実権を握ったのだろう。
即位してないから、奈良盆地の北に住み続けたのか。
記紀が中央集権を謳うには、実権を握る継体[26]を天皇に数えないわけにいかなかったのでは?

――― 2024/03/06 追記 ―――

分類を変更。
「葛城と尾張と和珥」「山代と丹波」「穂積と息長」の3つに分ける。

神功の系図では、山代と丹波の先の母系先祖が和珥氏になっている。
天稚彦懿徳天皇)の《婚姻による奈良盆地統一政策》の成果かもしれない。

――― 2024/03/30 追記 ―――

崇神[10]垂仁[11]の色を変更。

先代旧事本紀が記す崇神の母方の祖母、高屋阿波良姫について《葛城/尾張/和珥》の女性とする説があるため、初期値とする。
具体的には、高屋大分国造祖の建弥阿久良(天孫本紀によれば建戸米の子)や、阿波国造家(高皇産霊9世孫)との関係が指摘されている。
建弥阿久良を神八井耳の子孫とする説もある(参考:日本辞典>大分国造)。葛城氏の始まりを媛踏韛五十鈴媛とみる持論の証左になりえよう。

垂仁の母方の祖父、大彦は北陸道へ派遣され、息子の名前が武渟川別で「ヌナカワ」を含むことから、信越勢の《葛城/尾張/和珥》の女性を妻にして子を儲けた可能性が高いとみて、初期値とする。