天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

反九州の気運

前回の要点:
狭穂彦=阿彦=天津甕星、狭穂姫=支那夜叉、支那太郎=誉津別。
草薙剱は越前素戔嗚から子孫の丹波大己貴へ渡り、阿彦討伐に使われた。
同じ頃、科野と関東が争い、饒速日勢が科野を援けて関東勢を退けた。しかし記紀はなぜか八綱田(関東勢)が狭穂彦を討伐したと記して、丹波の勝利を横取りしている。
伊弥頭(越中西部)・三国・江沼(越前)国造は蘇我氏であり、上宮記は凡牟都和希王が継体[26]の祖と記す。

神代下第二段 海幸山幸:
兄の火闌降(海幸)と弟の彦火火出見(山幸)が試しに幸を交換してみたら、どちらも利を得なかった。悔やみつつ兄は弟に弓矢を返し、釣針を返すよう求めるが、釣針を紛失した弟は返せない。横刀から作った箕一杯の釣針を代わりにしようとするも兄は受け取らず、元の釣針を返せと言う。弟は憂い苦んで海辺を行き、塩土老翁に会う。事情を聞いた塩土老翁が、汝に計を為そうと言い、無目籠(まなしかたま、目の細かい籠)に弟を入れて海に沈めれば、そこに美しい小汀があった。籠を棄て行き海神の宮に着く。門前の井戸にかかる湯津杜(ゆつかつら)の下をうろつくと、小門から出てきた一美人が彦火火出見を見つけて帰り、客人の存在を父母に報せる。海神は宮内に畳を重ね敷き、客人を座らせ事情を聞くと、大小の魚を集めて問う。魚が、赤女(鯛)が口に怪我して来てないと言う。固く召してその口を探ると、兄の釣針があった。
彦火火出見は海神の娘である豊玉姫を娶り、海宮に三年住んだ。そこは安楽なれど郷情に駆られ溜息したとき、豊玉姫が聞きつけ父に報せた。海神は彦火火出見に、帰るなら送ると言う。そして釣針を授け、兄に返すとき密かに貧鉤(まじち)と言えと教える。また潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を授けて兄を伏せさせる術も教える。帰るとき豊玉姫は妊娠を教えて、風と波の急な日に海辺へ出るので産屋を作ってほしいと言う。
彦火火出見は帰り、海神の教えに遵(したが)う。火闌降は既に厄を被り困っており、自ら伏して、吾は汝の俳優(わざおさ)の民となると言う。
のちに豊玉姫は前の期(約束)どおり妹の玉依姬と風波のなか海辺に来た。出産に臨み、見る勿れと請うたが、天孫は我慢できず覗く。産もうとする豊玉姫は龍に化け為っていた。そして甚だ慙じ、もし我を辱めなければ海陸は相い通じて永く隔絶は無かったが今すでに辱めたと言い、草で兒を包み海辺に棄て、海の道を閉ざして去る。因んで兒の名は彦波瀲武鸕鶿草葺不合という。久しくのちに彦火火出見崩御する。

丹波王国概要

(1)越前素戔嗚の嫡流として草薙剱を保有していた。
(2)淡路勢と久比岐勢による兄磯城討伐のときは「避け」て静観した……国譲り。
(3)饒速日勢の加勢もあって畿内を掌握した淡路勢と久比岐勢が丹波に恭順を求め、丹波勢は協調派と対立派に分かれた……出雲振根。
(4)一旦は協調派でまとまり、日葉酢媛が垂仁妃になる。
(5)垂仁の跡目争いで皇后狭穂姫の越中と対立。戦争になり勝利する。久比岐勢が丹波勢を受け入れ、丹波勢が高志を掌握する。結果、対立派が息を吹き返す。
(6)九州へ出兵して熊襲の川上梟帥を討つ……日本武。
(7)再び熊襲討伐に出るが敗北……仲哀。
(8)神功皇后の命を受けた武内宿祢と武振熊(九州勢)が、仲哀庶子の忍熊王を討つ。以降、丹波勢は衰退する。
(9)丹波を受け入れた久比岐勢も武振熊(九州勢)に討伐される……両面宿儺。
(10)大物主として三輪山に祀られる。

熊襲について補足

熊襲は九州南部の人々と考えられている。
先代旧事本紀巻十の国造本紀は、崇神朝に神八井耳後裔を阿蘇国造に任じたと記す。神八井耳は神武と媛蹈韛五十鈴媛の皇子であり、実際は大彦と久比岐の女性のあいだの子と推測した。

崇神朝は、崇神が実在しないとしても、垂仁朝の一世代前になる。国造本紀が正しいなら、川上梟帥(熊襲)はすでに国造がいた阿蘇国の首長ということになり、矛盾が生じる。そして阿蘇国造を神八井耳5世孫(応神[15]世代)とする系図が存在する。よって国造本紀の誤りと考えられる。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
阿蘓國造
 瑞籬朝御世 火國造同祖神八井耳命 孫速瓶玉命 定賜國造
wikipedia 阿蘇国造 2021年7月転写
系図では神八井耳命―武宇都彦命―武速前命―敷桁彦命―健磐龍命速瓶玉命となっており、これに従えば速瓶玉命神八井耳命の孫ではなく5世孫となる。

神功皇后と武内宿祢

神功皇后の出身氏族である息長氏は、琵琶湖の北東が本拠地と考えられている。河内や吉備にも痕跡が見られることから、淀川と茅渟海および明石海峡を活動域にしていたと考える。高志と瀬戸内を結ぶ交易を担っていたであろう息長氏は、淡路勢と久比岐勢の流れを汲むと推測する。

武内宿祢は活動年代が長く、後裔氏族も多岐にわたるため、複数人を組み合わせた存在と考える。そのなかで神功皇后に近く仕えていた武内宿祢は、成務[13]朝に伊弥頭(富山県射水市)と三国(福井県坂井市/あわら市)の国造に任じられる蘇我氏の祖と推測する。

熊襲討伐と三韓征伐をめぐる仲哀と神功皇后の行き違いは、北九州に配慮した淡路と高志が、丹波に賛同しなかったことを表しているのではなかろうか。

そして三韓征伐は北九州勢の事績と考える。
息長氏は淡路と久比岐を結ぶ氏族であり、淡路も久比岐も北九州と縁深い地域だ。北九州が行った三韓征伐という大事を、北九州に縁深い息長氏の事績にすり替えたものと推測する。

仲哀[14]に続く応神[15]は、垂仁[11]の子孫ではない可能性がある。しかし垂仁同様に、淡路勢と久比岐勢の流れを汲む息長氏の出身だろう。

海幸山幸

神代下第二段(海幸山幸)の舞台は、記紀の記すとおり日向国と考える。
そして、仲哀の熊襲討伐失敗がこの逸話の元になる事件ではないかと推測する。

国造本紀は、応神[15]朝に景行[12]皇子である豊国別の三世孫を日向国造に任じると記す。景行の母は丹波の日葉酢媛だ。仲哀[14]以前に豊国別が日向国に入植して、大和に従うよう求めていたのではなかろうか。
そして、豊国別の子孫が火闌降(海幸)ではなかろうか。

彦火火出見(山幸)は日向勢の首長氏族だろう。
豊国別の服従要求に困り、瀬戸内を介して近畿を交易路にしている北九州へ行って仲介を要求し、そこで阿曇氏の豊玉姫を妻に得た。

北九州の阿曇氏は日向の仲介要求に応え、丹波を諌めるよう淡路や久比岐に働きかけた。これが、神功皇后が仲哀の熊襲討伐に反対したエピソードになったと考える。そして瀬戸内と高志の協力を得られないまま熊襲討伐を強行した仲哀は、敗戦したうえに亡くなる。豊国別は威勢を失い、日向勢に恭順した ――と考える。

潮満瓊と潮涸瓊のエピソードは、干満の差が激しい湾や入り江での戦闘を表すのかもしれない。

履中[17]紀が記す住吉仲皇子

仁徳[16]の喪が明け、皇太子(履中[17])は婚姻の手筈を整えるが、相手の黒姫に遣わした住吉仲皇子が太子を騙り黒姫を奸する。皇太子はこれに気づくが、知らぬふりをする。しかし仲皇子は最悪の事態を考え、太子の殺害を決意して宮に火をつけるが、太子は平群木菟宿祢・物部大前宿祢・漢直祖阿知使主らが逃がしていたので助かる。仲皇子に味方する阿曇連濱子が、淡路野嶋の海人に太子を追わせるが失敗する。倭直吾子籠も仲皇子に味方して兵を率いるが、太子の兵の多さに挫け、太子を助けに来たと偽る。しかし太子が疑って殺そうとしたので、妹の日之媛を献じて許しを得る。
窮地を脱した太子は石上振神宮に籠り、訪ねてきた瑞歯別皇子(反正[18])に仲皇子殺害を頼み、木菟宿祢を副える。瑞歯別皇子は仲皇子の近習の刺領巾を金品で釣り、仲皇子を殺させる。木菟宿祢が近習にあるまじき不忠義と進言し、瑞歯別は刺領巾を殺す。瑞歯別が復命した日に阿曇連濱子を捕らえ、のちに墨刑に処する。

日本書紀は住吉仲皇子の反逆の理由を色恋沙汰としているが、古事記皇位簒奪としている。

日本書紀は履中を、治世6年、70才崩御と記す。よって63才の色恋沙汰である。また、妃になった黒姫とのあいだに三子を儲けたとも記す。
おそらく、黒姫を巡る色恋沙汰を理由とする日本書紀の記述は虚偽だ。

一方の古事記も疑わしい点がある。
応神皇后(仲姫)が生んだ第四皇子である仁徳[16]までは弟が皇位を継いでいる(一人っ子は除く)が、履中[17]は皇后(磐之媛)が生んだ第一皇子だ。また母の磐之媛葛城襲津彦の娘で、皇族ではない出自の皇后の初例とされる。
履中が皇太子になることは異例だったはずだが一切言及がない。

履中を皇太子とする記述も、虚偽の可能性があるだろう。
記紀は履中[17]、住吉仲皇子、反正[18]、允恭[19]の四皇子を、皇后である磐之媛が生んだと記すが、これも疑わしい。

阿曇連濱子が履中[17]にかけた追手は「淡路野嶋の海人」を名乗る。現代の地図では、舟木遺跡(淡路島)の北々西2kmほどの海岸沿いに淡路野島がある。よって阿曇連濱子は淡路勢または北九州勢と考える。
同じく仲皇子に味方しようとした倭直吾子籠は、久比岐青海氏から分かれた倭氏だ。

阿曇氏と倭氏が擁護する住吉仲皇子のほうが正統だったのではなかろうか。

仁徳は初期に多くみえる長寿天皇の最後であり、その寿命は100を超える。
仁徳[16]と履中[17]のあいだには明らかな節目がある。

治世年数

神武[1]から継体[26]までの治世年数を書きだすと、
神武76 綏靖33 安寧38 懿徳34 孝昭83 孝安102 孝霊76 孝元57 開化60 崇神68 垂仁99 景行60 成務60 仲哀9 (神功69) 応神41 仁徳87 履中6 反正5(6) 允恭42 安康3 雄略23 清寧5 顕宗3 仁賢11 武烈8 継体23 ――である。

仁徳以前では、仲哀[14]の治世9年が目立って短い。
履中以降は極端な短期治世が多いなかで、允恭[19]の42年と雄略[21]の23年が程よい治世年数と云えるだろう。允恭は襲津彦の孫の玉田宿禰を討ち、雄略は同じく孫の円大臣を殺めている。

また、国宝北野本は反正の治世を6年と記す。
もしも6年のほうが正しいなら、以下の出来すぎた計算式が成り立つ。
允恭42 = 履中6+反正6+安康3+清寧5+顕宗3+仁賢11+武烈8

治世年数の長短は、編纂者により恣意的に設定されているのではなかろうか。
その真意を読むには、親九州派と反九州派、襲津彦の正体などを見極める必要があるだろう。

建国神話まとめ

以上が、日本書紀に記された大和の建国神話だ。

大和に屈服させられた可哀想な出雲など存在しないことをご理解いただきたい。
可哀想というなら越中が一番だろう。

そして、倭大国魂神は決して大国主ではないと知っていただきたい。

天津甕星と狭穂彦と越中阿彦

前回の要点:
武渟川別東海道派遣は、科野と関東の交流を投影したもの。
協調派と対立派に意見が割れていた丹波では、国譲りののち対立派が優勢になり、日本武と仲哀による九州出兵が起きた。九州から武振熊が来て仲哀庶子の忍熊王を討伐して以降、丹波は衰退する。九州は翡翠産地に入り込んだ丹波の血筋も排除した。これが両面宿儺であり、椎根津彦嫡流の久比岐青海氏は消失する。この抗争の敗者が大物主であり、祭主の三輪氏は久比岐青海氏の流れを汲む。
崇神は個人としても勢力としても実在しない。
「天兒屋」「武甕槌」「豊城入彦・八綱田・御諸別」は敵対勢力。
越中西部の首長が観松彦・観松姫であり、事代主後裔にあたる。綏靖[2]皇后の御間城姫は大彦と越中西部の女性のあいだの子で観松姫でもある。

喚起泉達録が記す阿彦

喚起泉達録は江戸時代(享保、吉宗[8])に富山藩士の野崎伝助が著した越中郷土史。伝助の孫の野崎雅明は越中通史の肯構泉達録を著した(文化、家斉[11])。
上記二書は、越中の阿彦が大若子に退治される話を収録している。

喚起泉達録が記す阿彦について、ファンタジー色を抜いて大雑把にまとめると。
(1)北陸道へ派遣された大彦は、越中を手刀摺彦に任せ帰洛した。
(2)阿彦峅も走長に任じられたが、大彦の帰洛後はこれに従わず、民を虐げた。
(3)阿彦峅の姉の支那夜叉は越後黒姫山の邵天義に嫁ぎ支那太郎を生んだ。苛烈な気性の母子は、温厚な邵天義の殺害を企てたが察知され、越中阿彦峅の元へ帰された。
(4)阿彦峅らの暴虐を恐れて従う者もいて、阿彦勢力は拡大した。
(5)手刀摺彦も豪族をまとめ対抗したが勝てなかった。そこで帝に上奏して官軍を要請した。
(6)大若子が派遣され、苦戦するもなんとか阿彦を討伐した。

大若子による阿彦討伐は、豊受大神宮禰宜補任次第にも記されている。

豊受太神宮禰宜補任次第 大若子命 上記デジタル書籍より文字起こし
大若子命 一名大幡主命
右命。天牟羅雲命子天波與命子天日別命第二子彥田都久禰命第一子彥楯津命第一子彥久良爲命第一子也。
越國荒振凶賊阿彥在不從皇化。取平。標劒賜遣。即幡主罷行取平返事白時。天皇歡給。大幡主名加給
垂仁天皇即位二十五年丙辰。皇大神宮鎭座伊勢國五十鈴河上之時。御供仕奉爲大神主也。

右命 天牟羅雲命 子の天波與命 子の天日別命 第二子の彦田都久祢命 第一子の彦楯津命 第一子の彦久良為命 第一子也
越国 荒振る凶賊の阿彦 在 皇化に従わず 平げ罷める詔を取る 標の劒を賜り遣わす 即ち幡主は罷り行き 平を取る 返し事を白す時 天皇は歓び給う 大幡主の名を加え給
垂仁天皇即位二十五年丙辰 皇大神宮伊勢国五十鈴河上に鎮座する 之の時 仕え奉る御供 大神主と為る也。

大若子の弟の乙若子は、伊勢外宮宮司世襲する度会氏の祖だ。
伊勢外宮の祭神である豊受大神丹後国の籠神社に祀られていたが、雄略[21]の御代に天照の神託によって丹波(丹後)から遷座したと伝わる。

wikipedia 度会氏 2021年7月転写
度会氏の祖は天牟羅雲命(天児屋命の子)であると伝えられ、伊勢国造の後裔であるとされる。しかし彦坐王の後裔・丹波国造の一族の大佐々古直が石部直渡会神主の祖と系図に見えており、後者が実際の系図であったとされる。当初は磯部氏を称していたが、奈良時代に渡会(渡相)神主姓を下賜されたという。

大若子は丹波勢なので、丹波越中を攻め落としたと考える。

星城

喚起泉達録の「手刀摺彦越之地ヲ司シ尚郷人ヲ定事」に、手刀摺彦が十二方位の城に在地豪族を配置したとある。記述があるのは卯辰(巳)午未(申)酉(戌)亥で、そのうち巳申戌は越中四郡に無いとし、卯辰午未酉亥の六城についてのみ詳細が記されている。

さらに、卯辰山ノ城を中央城(なかち城)と定め、一説には星城とも云うと記す。
この城にある星石が空へ昇り光る様子から吉凶を知れるというのだが、非現実的で難解なので割愛する。ともかく、手刀摺彦が定めた中央城には星城という異名がある。

星城がある場所の地名は、伝助の時代(享保)には「中地」と誤って伝わっているとも記す。現代の地図では、富山県富山市中地山は立山山頂から西へ20kmほどの所にある。

星関連では他に、大若子の指揮のもと佐留太と甲良彦が支那夜叉を追い詰めたとき、阿彦配下の強狗良の鉾が佐留太の鉾の鉄鍔(つみは)にあたり、破損した鉄鍔が飛んで立山の中程に落ち、美加保志(ミカホシ)になったと記す。

二つの逸話から、越中東部は星に縁深い地域だったと考える。
越中の阿彦が、日本書紀の国譲り(神代下第一段)にて退治された天津甕星(アマツミカボシ)なのだろう。

狭穂姫

垂仁紀は、狭穂姫は兄である狭穂彦の謀反に加担するも非道になれず、悩んだすえ垂仁に打ち明け、垂仁は八綱田に討伐させたと記す。狭穂姫は後添えに丹波道主の娘を迎えるよう垂仁に進言して、戦場で亡くなる。

喚起泉達録は、阿彦の姉である支那夜叉は越後黒姫山の邵天義とのあいだに支那太郎を儲けるが、邵天義の殺害を企てたことが露見して阿彦のもとへ返され、そして母子ともに大若子と戦ったと記す。

狭穂姫と支那夜叉は、立場や結果を抽出してみると似ている。

また尾張国風土記逸文に、一人目の垂仁[11]皇后である狭穂姫が生んだ誉津別皇子の言語障害を治癒する逸話がある。解決手段は異なるが、垂仁紀も誉津別が喋れるようになる逸話がある。

誉津別命及壮而不言 上記デジタル書籍より文字起こし
尾張風土記中卷曰 丹波郡 吾縵郷 卷向珠城宮御宇天皇 品津別皇子 生七歳而不語傍問群下 無能言之 乃後皇后夢有神告白 吾多具國之神 名曰阿麻乃彌加都比女 吾未得祝 若爲吾充祝人 皇子能言亦是壽考 帝卜人覓神者 日置部等祖建岡君卜食 卽遣覓神 時 建岡君到美濃國花鹿山 攀賢樹枝造縵 誓曰 吾縵落處 必有此神 縵去落於此閒 乃識有神 因竪社 由社名里 後人訛言阿豆良里也(釈日本紀十 誉津別命及壮而不言)

(訳文:上記の岩波文庫風土記」のコマ番号148/291)

垂仁[11]紀廿三年秋九月丙寅朔丁卯
廿三年秋九月丙寅朔丁卯 詔群卿曰 譽津別王 是生年既卅 髯鬚八掬 猶泣如兒 常不言 何由矣 因有司而議之 冬十月乙丑朔壬申 天皇立於大殿前 譽津別皇子侍之 時 有鳴鵠 度大虛 皇子仰觀鵠 曰 是何物耶 天皇則知皇子見鵠得言 而 喜之 詔左右曰 誰能捕是鳥獻之 於是 鳥取造祖天湯河板舉奏言 臣必捕而獻

二十三年秋九月丙寅朔丁卯 群卿に詔り曰く 誉津別王 是の生年は既に三十 髯鬚は八掬 猶も兒の如く泣く 常に言わず 何の由矣 因て司有りて之を議る 冬十月乙丑朔壬申 天皇は大殿前に立つ 誉津別皇子は之に侍る 時 鳴鵠有り 大虚(空)を度(渡)る 皇子は鵠を仰ぎ観る 曰く 是は何物耶 天皇は則ち皇子が鵠を見て言を得るを知る 而 之を喜ぶ 左右に詔り曰く 誰ぞ能く是の鳥を捕え之に献ぜよ 於是 鳥取造祖の天湯河板挙は奏じ言う 臣は必ず捕えて献じる

―― 中略 ――

十一月甲午朔乙未 湯河板舉 獻鵠也 譽津別命 弄是鵠 遂得言語 由是 以敦賞湯河板舉 則賜姓 而 曰鳥取造 因亦定鳥取部鳥養部譽津部

十一月甲午朔乙未 湯河板挙 鵠を献じる也 誉津別命 是の鵠を弄ぶ 遂に言語を得る 是の由 以て湯河板挙を敦く賞する 則ち姓を賜る 而 鳥取造と曰く 因て亦た鳥取部鳥養部誉津部に定める

風土記に逸話を記すなら、狭穂彦・狭穂姫と尾張氏には縁があるのだろう。尾張氏祖の高倉下嫡流は、翡翠海岸がある越中東部の首長氏族と考えられる。狭穂彦・狭穂姫と越中がつながる。

よって「狭穂彦=阿彦=天津甕星」「狭穂姫=支那夜叉」「誉津別=支那太郎」と考える。

草薙剱

喚起泉達録は、大若子が火に巻かれたとき剱が自ら抜けて周囲の草を薙払い、炎を食い止めたのでこの剱を草薙剱と称すると記す。日本書紀は類似の話を景行[12]40年10月、東征に赴く日本武のエピソードとして記す。

日本武は、崇神[10]紀が記す出雲振根と類似する謀略を出雲建討伐に用いることから、丹波の対立派を象徴する存在だろうと推測した。狭穂彦討伐も淡路勢・久比岐勢と対立する行為だった可能性がある。狭穂彦が謀反したとか、垂仁が討伐を命じたなどの記述は、虚偽かもしれない。

豊受太神宮禰宜補任次第は「標劒賜遣」と記し、阿彦討伐の勅を下した垂仁が大若子に草薙剱を賜ったとする。

丹波大己貴は、越前素戔嗚の子孫と推測した。
草薙剱は、航海の途中に立ち寄った科野勢(戸隠神社九頭龍大神=八岐大蛇)を、越前勢が襲撃して入手した剱で、子孫の丹波勢に受け継がれたと推測する。
素戔嗚は天照に草薙剱を献上しなかったのだろう。

科野の穂高見、久比岐の椎根津彦越中東部の高倉下は系図上同族である。
そして高倉下嫡流の狭穂彦討伐に、この草薙剱が使われた。
現代、草薙剱は高倉下後裔尾張氏所縁の熱田神宮にて祀られている。

八綱田

垂仁[11]紀に狭穂彦を討伐したと記される八綱田は、崇神妃の遠津年魚眼眼妙媛が生んだ豊城入彦皇子の子だ。八綱田の子である彦狭島は(八綱田と同一説がある)先代旧事本紀巻十の国造本紀に上毛野国造と記される。

古事記が記す建御名方と武甕槌の戦いは、科野と上毛野の抗争のことではないかと推測した。古事記では建御名方が武甕槌に敗れ、垂仁紀では狭穂彦が八綱田に討伐される。古事記日本書紀の記述は対応しているようだ。

だがしかし地元越中の伝承では、阿彦を討伐したのは丹波勢の大若子だ。

加えて、科野には饒速日勢が加勢した。
先代旧事本紀巻十の国造本紀は、諏訪湖から太平洋へ流れる天竜川の河口付近にあたる遠江・珠流河・久努に物部氏を任じると記しており、饒速日勢は科野へ通じる道を確保していたと考えられる。

饒速日の後裔である物部氏飛鳥時代にも有力な軍事氏族として存在する一方、関東は防人など苦役を負担させられる。のちの状況をみれば、上毛野勢が饒速日勢に勝利したとは考えにくい。
記紀編纂時の朝廷には、虚偽を書き連ねてでも関東に配慮しなければならない何らかの事情があったのかもしれない。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
素賀國造
 橿原朝(神武)世 始定天下時従侍来人名 美志印命 定賜國造
遠淡海國造
 志賀髙穴穂朝(成務) 以物部連祖伊香色雄命 兒印岐美命 定賜國造
珠流河国造
 志賀髙穴穂朝(成務)世 以物部連祖大新川命 兒片堅石命 定賜國造
久努國造
 筑紫香椎朝(仲哀)代 以物部連祖伊香色男命 孫印播足尼 定賜國造

伊弥頭(射水

越前の剱神社は地元民に慕われる英雄として素戔嗚を祀り、飛騨の千光寺は両面宿儺を開山の祖と伝える。記紀神話が悪しざまに記しても地元民は慕うものだろう。
しかし地元越中の伝承において阿彦は完全な悪者だ。

越中の伝承は、外部圧力により捻じ曲げられたのではなかろうか。
その原因に、越中西部の伊弥頭国造に任じられた蘇我氏が関係するかもしれない。

先代旧事本紀 国造本紀
三國國造
 志賀髙穴穂朝(成務)御世 宗我臣祖彦大忍信命 四世孫若長足尼 定賜國造
伊弥頭國造
 志賀髙穴穂朝(成務)御世 宗我同祖建内足尼 孫大河音足尼定 賜國造
江沼國造
 柴垣朝(反正)御世 蘇我臣同祖武内宿祢 四世孫志波勝足尼 定賜國造

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蘇我氏と四隅突出墳と越中一宮

釈日本紀が記す上宮記逸文は、継体[26]の祖を「凡牟都和希王」と記したうえで、横に「譽田天皇也」と添える。ホムタは応神[15]のことだが、ホムツワケ(誉津別)は垂仁[11]と狭穂姫のあいだに生まれた皇子のことだ。

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継体[26]系図 上記デジタル書籍より転写
wikipedia 上宮記 2021年7月転写
7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書。『日本書紀』や『古事記』よりも成立が古い。 ――中略―― 編者は不詳。上・中・下の3巻から成るか。 ――中略―― 神代の記述も存在したらしいが、まとまった逸文継体天皇聖徳太子関連の系譜で占められる。

聖徳太子は、父方(用明[31])の祖母が蘇我稲目の娘の堅塩媛、母方(穴穂部間人皇女)の祖母も蘇我稲目の娘の小姉君であり、蘇我系の皇子だ。上宮記のほうが正しい可能性もあるが、蘇我氏に都合の良い歴史改竄である可能性もある。

蘇我氏は王家だったとする説もある。
また、越中西部の首長は事代主後裔である可能性があり、ひいては蘇我氏と事代主になんらかの縁がある可能性も考えられるだろう。

越中一宮について補足

越中には一宮が四社もある(全国最多)。東から順に

雄山神社立山雄山神・刀尾神】
雄山山頂は立山山頂のわずか350mほど南にある。山頂から西方向の称名川(合流して常願寺川)に沿って雄山神社が点在する。喚起泉達録が記す「星城」があった中地山もこのあたり。

【氣多神社:大己貴・奴奈川姫】
石川県羽咋市にある氣多大社から勧請したと伝わる。

射水神社二上神(二上山)】
二上山山頂は射水神社の北方向4.6kmほどにある。標高274m。

【髙瀬神社:大己貴】
この地を大己貴が平定した伝承がある。

越中一宮 髙瀬神社
「在昔、大己貴命北陸御経営ノ時、己命ノ守リ神ヲ此処ニ祀リ置キ給ヒテ、ヤガテ此ノ地方ヲ平治シ給ヒ、国成リ竟ヘテ、最後に自ラノ御魂ヲモ鎮メ置キ給ヒテ、国魂神トナシ、出雲ヘ帰リ給ヒシト云フ。」(高瀬神社誌15~16頁)

崇神非実在説

前回の要点:
淡路の大彦を夫にした久比岐の女性が武渟川別を生む。
大彦が初代神武天皇で、武渟川別が第二代綏靖天皇(神渟名川耳天皇)。
椎根津彦嫡流の久比岐青海氏から分家して近畿へ移住した人々が倭氏。
饒速日伊勢津彦であり、科野へ移住した。
第三代安寧天皇から第九代開化天皇までは神武(大彦)の子孫ではないが、ヤマト建国神話で活躍した実在の人物が列記されている。

四道将軍

武埴安彦討伐は国見岳八十梟帥討伐であり、四道将軍の大彦は神武、武渟川別は綏靖、吉備津彦は吉備の首長、丹波道主は丹波の首長と考える。

東海道へ派遣されたと記される武渟川別だが、おそらく行ってないだろう。考古出土品から、弥生末期に科野勢が関東の集落と交流した痕跡がみつかっている。記紀は久比岐と科野を混同しがちなので、この痕跡を久比岐の血を引く武渟川別の事績にしたと推測する。

古事記は、大彦と武渟川別会津で合流したと記す。これも交流の痕跡を記したものと考える。高志深江は東北系土器が出土するなど東北と交流していた痕跡があり、阿賀野川阿賀川)で結ばれている会津には大塚山古墳がある。

出雲振根

出雲振根の留守中、神宝の貢上を天皇に求められた振根の弟の飯入根は皇命に従う。これに腹を立てた振根が策を弄して飯入根を殺害した。天皇武渟川別吉備津彦を遣わして振根を討たせた。

瀬戸内勢と久比岐勢が出雲に圧力をかけ、出雲内部では恭順か抵抗かで意見が割れたと解釈できる。これは丹波大己貴の国譲りにまつわるエピソードだろう。
丹波には協調派と対立派がいて、一枚岩ではなかったと考える。

出雲振根が弟を殺害するために用いた策は、古事記の倭武が出雲建を討伐する際に用いた策と酷似する。よって日本武(倭武)は、出雲振根を含む対立派を象徴する存在と見做す。景行[14]紀の日本武の活躍は、対立派優勢になった丹波勢の事績だろう。

日本武と両道入姫命(垂仁[11]皇女)のあいだの子が仲哀[14]だ。
ただし、誕生年の問題が指摘されている。

wikipedia 両道入姫命 2021年7月転写
記紀ともに一致して記載している仲哀天皇の享年から計算できる生年(成務天皇18年)が日本武尊の死去から38年後にあたるという矛盾を抱えており、日本武尊仲哀天皇、そして両者をつなぐ存在である両道入姫命が本当に実在していたかどうかは不明である。

日本武は熊襲を討伐した。仲哀は熊襲討伐を試みたが病死した。
どちらの九州侵攻も、対立派が優勢になった丹波勢の事績と考える。

丹波勢は、丹波道主の娘の日葉酢媛が皇后になった垂仁の頃から隆盛し、仲哀庶子の忍熊王が武内宿祢と武振熊(和珥臣祖)に討伐されて衰退する。

仁徳[16]紀が記す両面宿儺

武振熊は忍熊王討伐に参加したと神功[14.5]紀に記されるほか、仁徳[16]紀には両面宿儺を討伐したとある。世代数からみて武振熊は一人ではないだろう。

仁徳[16]紀六十五年
六十五年 飛騨國有一人 曰宿儺 其爲人 壹體有兩面 面各相背 頂合無項 各有手足 其有膝而無膕踵 力多 以輕捷左右佩劒 四手並用弓矢 是以 不隨皇命 掠略人民爲樂 於是 遣和珥臣祖難波根子武振熊 而 誅之

六十五年 飛騨国に一人有り 曰く宿儺 其の為人(ひととなり) 壱の体に両面有り 面は各(おのおの)相背く 頂を合わせ項(うなじ)無し 各に手足有り 其れに膝有りて膕(ひかがみ、膝裏)も踵も無し 力は多い 軽捷(けいしょう、身軽で素早い)を以て左右に剱を佩く 四手は弓矢を並べ用いる 是以 皇命に隨わず 人民を掠略(りょうりゃく)し楽しみと為す 於是 和珥臣祖の難波根子武振熊を遣わす 而 之を誅する

世代を超えて武振熊の名を用いているのは、両面宿儺討伐が忍熊王討伐と同じ目的だからではないかと推測する。目的とはつまり丹波勢の排除だ。

飛騨は越中の南方にあり、先代旧事本紀巻十の国造本紀は成務[13]のころに尾張連の祖を飛騨国造に定めたと記す。越中から高山盆地・下呂を通り東海の尾張へ通じる道が存在したと考える。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
斐陀國造
 志賀髙穴穂朝御世。尾張連祖瀛津世襲命 _大八椅命 定賜國造

越中東部には翡翠海岸があり、尾張氏祖の高倉下は久比岐青海氏祖の椎根津彦と従兄弟だ。両地域は3000メートル級の立山穂高連峰を有する飛騨山脈に隔てられている。この地域特性を、四手二面の姿で表したのではなかろうか。

両面宿儺とは、翡翠の産地である越中東部と久比岐に入り込んだ丹波の血筋と推測する。おそらく丹波と婚姻関係を結んでいた椎根津彦嫡流の青海氏はこのとき消失したのだろう。

のちに、ヤマトの中枢から排除した丹波勢の祟りを恐れて、和珥氏らが大物主として祀るようになったと考える。その祭主である三輪氏は久比岐が受け入れた丹波の血筋だから、大田田根子は媛蹈韛五十鈴媛の同族とされているのだろう。

和珥氏

和珥氏は志賀島阿曇氏に近しい氏族とする説がある。
九州を攻撃した丹波氏を武振熊が討伐しているので、あり得ると思う。

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Wikipedia「和珥氏」より抜粋・転写
和珥氏族は孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(天押帯日子命)から出たと称しているが、この天足彦国押人命という名は実体が殆ど無いものであり、和珥氏族の実際の上祖は天足彦国押人命の子とされる和邇日子押人命であったと考えられる。

だがしかし。
孝昭[5]は事代主、孝安[6]は越前素戔嗚、開化[9]は饒速日と推測した。
推測に基づいて系図をみると、許々止呂は長髄彦に該当しそうだ。兄磯城磯城や兄猾弟猾のように、対立派の長髄彦にも協調派の弟(彦国姥津)がいたのかもしれない。

武振熊の活躍が三世代に跨ぐことや、武振熊以前も世代数が足りないことを考慮すると、丹波を討伐するために近畿へ侵攻してきた九州の軍勢が武振熊であり、衰退気味だった地元の和珥氏がこれを受け入れ、融合した可能性があるだろう。

少彦名と大物主

越前素戔嗚の嫡流である丹波氏が、大物主と推測する。
よって、もとは太陽信仰の聖地だったと思われる三輪山の祭神を大物主にすり替えたのは、早くとも仁徳[16]より遡らないと考える。

このあたりの事情を抽象的に描いた神話が、神代上第八段(八岐大蛇)一書第六なのだろう。

大国主と力を合わせ国造りした少彦名は常世鄕へ行ってしまった。一人きりで国を治める不安をこぼす大己貴のもとへ海を照らす神光が来て、国を平らげたのは吾があってこそと言い、誰何されては汝の幸魂奇魂と名乗り、坐したい所を問えば御諸山(三輪山)と答えた。大己貴は初めて少彦名に出会ったとき、掌に置いて弄び、頬を齧られた。この小さな人の素性を天に問うと高皇産霊が、指の間より漏れ墮ちた我が子を愛で養うようにと云った。

少彦名は高皇産霊の子と日本書紀に記されるが、神皇産霊を祖とする天日鷲と同一と考えられている。

wikipedia 天日鷲 2021年7月転写
新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連、美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲神の子である天羽槌雄神鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことから少彦名神天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天背男命(天湯川田命)ー天日鷲神少彦名神)ー天羽槌雄神(建日穂命)ー波留伎別命」となる。

先代旧事本紀巻十の国造本紀は、紀伊/神武[1]・石見/崇神[10]・吉備中縣/崇神[10]・葛津立/成務[13]・淡道/仁徳[16]を、神皇産霊の後裔と記す。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
紀伊國造
 橿原朝御世 神皇産霊命 五世孫天道根命 定賜國造
石見國造
 瑞籬朝(崇神)御世 紀伊國造同祖蔭佐奈朝命 兒大屋古命 定賜國造
吉備中縣國造
 瑞籬朝御世 神魂命 十世孫明石彦 定賜國造
葛津立國造
 志賀髙穴穂朝御世 紀直同祖大名草彦命 兒若彦命 定賜國造
淡道國造
 難波立津朝御世 神皇産霊尊 九世孫矢口足尼 定賜國造

紀伊国造の紀氏は日前神宮・国懸神宮にて、天岩戸隠れの折りにつくられた八咫鏡(一書第三)と日矛(一書第一)を祀る宮司を代々受け継いでいる。逐降の諸神が瀬戸内の勢力と思われることから、神皇産霊も瀬戸内に縁深い神と推測する。

少彦名は、瀬戸内勢が在地勢力と関わったことで国づくりが進んだことを表し、大物主は、瀬戸内勢に代わり丹波勢が近畿と高志を席巻したことを表すのだろう。

この逸話の大己貴は、杵築大己貴と考える。
大物主は「如吾不在者 汝 何能平此國乎(もし吾が在らずは 汝 何ぞ能く此国を平らぐ乎)」と恩着せがましく言ったが、直接的には何もしてない。丹波は山陰出雲の海を通過するだけだったのだろう。

崇神非実在

三輪山における大物主の祭祀は丹波勢が衰退して以降と思われる。よって崇神の事績とは考えにくい。また天照と倭大国魂の祭祀は垂仁[11]紀にも記述がある。

四道将軍はそれぞれ、吉備津彦は吉備の首長、丹波道主は丹波の首長、大彦は神武[1]、武渟川別は綏靖[2]なので、四道将軍の派遣はなかったと考える。

武埴安彦討伐は国見岳八十梟帥および越前素戔嗚と同一であり、その討伐は大彦や吉備津彦ら瀬戸内勢による一世代前の事績と考える。

崇神を「実在する可能性のある最初の天皇」とみる説が浸透しているが、その事績は借り物ばかりだ。よって崇神は実在しないと考える。崇神を存在させることで、畿内勢力が皇統を受け継いだように見せかけているのだろう。

大彦(神武)の跡を継いだのは子の武渟川別(綏靖)であり、その子が活目入彦(垂仁)と考える。

豊城入彦

前章にて、天日別と武甕槌の違和感、および藤原氏(中臣氏)の疑惑に言及した。 さらに国譲り神話の章では、古事記が記す建御名方と武甕槌の闘いが、関東を舞台にした科野勢と上毛野勢の争いである可能性を述べた。

上毛野勢である御諸別の祖は豊城入彦であり、その親は崇神と遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国荒河戸畔の娘)だ。これをもって荒河戸畔が帰順したと解釈するが、崇神が実在しなければ帰順してない可能性がでてくる。

対立軸はシンプルだ。
豊城入彦、八綱田(彦狭島)、御諸別ら一族は、長髄彦が討たれたあとも依然として淡路・久比岐の連合勢力と敵対していた。だから関東から科野を攻撃した。
饒速日勢は科野を援けるために伊勢を離れ、手薄になった伊勢を天日別が侵略した。

伊勢国風土記逸文は、伊勢津彦を排除する天皇の勅が天日別に下されたと記すが、おそらく虚偽だろう。

中臣氏祖の天兒屋は天岩戸神話でも忌部氏祖の太玉と並び活躍するが、これも太玉の活躍する場面に天兒屋を捩じ込んだとする説がある。国譲り神話の武甕槌と同じやり口とみていいだろう。

中臣氏は、饒速日勢や淡路勢とは一線を画す太平洋側の勢力ではなかろうか。
神武東征の序盤に天兒屋の孫である天種子が菟狭津媛を娶ったと記されるが、婚姻は事実でも、神武東征とは一切関係ない時期に結ばれたのではないかと思う。

「天兒屋」「武甕槌」「豊城入彦・八綱田・御諸別」の皇統への貢献は史実に反する虚偽であり、実際は敵対勢力だった可能性がある。

御間城姫

日本書紀は、崇神とのあいだに子をもうけた女性を三名挙げる。
皇后の御間城姫は大彦の娘で、垂仁[11]ら五子を生む。
妃の遠津年魚眼眼妙媛は紀伊国荒河戸畔の娘で、豊城入彦ら二子を生む。
妃の尾張大海媛は尾張建宇那比の娘で、淳名城入姫ら三子を生む。

古事記も同じ三名だが、順番と子の内訳が違う。
一人目は遠津年魚目目微比売で、豊木入日子ら二子を生む。
二人目は意富阿麻比売で、大入杵・沼名木之入日売ら四子を生む。
三人目に御真津比売で、垂仁[11]ら六子を生む。

古事記が皇后を先頭に記さない例は開化[9]にも見える。
日本書紀は「伊香色謎・丹波の竹野媛・和珥臣の姥津媛」の順だが、古事記は「旦波の竹野比売・色許売命・丸邇臣の意祁都比売」の順で記す。

伊香色謎は饒速日勢であり、丹波はのちに淡路・久比岐と対立する。
皇后を差し置いて対立勢力の女性を先頭に記すことには、大国主のエピソードで上巻のほとんどを埋めた古事記のスタンスが表れているのだろう。

話を本題に戻す。
豊城入彦の母である遠津年魚眼眼妙媛以外の御二方、御間城姫と大海媛は出自から淡路・久比岐勢の味方勢力と考えられるので、夫は綏靖(武渟川別)だろう。

綏靖(武渟川別)と御間城姫は異母兄妹/姉弟と考える。

御間城姫は、古事記では御真津比売と記される。そして「ミマツ」と、同じ音で読む名前のパーツに「觀松」がある。

前章にて、事代主後裔に観松彦色止がいることから、「觀松彦香殖稲」の和風諡号を持つ孝昭[5]は事代主だろうと推測した。また孝昭皇后の世襲足媛が高倉下後裔の尾張氏であり、事代主が越前素戔嗚の子孫であることから、越中国婦負郡の四隅突出墳との関連を示唆した。

よって、婦負郡がある越中西部を治める首長の称号が観松彦・観松姫であり、事代主の子孫と推測する。御間城姫は、大彦と越中西部の女性のあいだの子だろう。

これは、綏靖皇后の五十鈴依媛を事代主の娘とする欠史八代紀の記述と合致する。

欠史八代紀 安寧[3]天皇
磯城津彥玉手看天皇 神渟名川耳天皇太子也 母曰五十鈴依媛命 事代主神之少女也

磯城津彦玉手看天皇(安寧[3]) 神渟名川耳天皇(綏靖[2])の太子也 母は曰く五十鈴依媛命 事代主神の少女(下の娘)也