天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第六章 国譲り神話

前回の要点:
日本海を航行した科野安曇氏が八岐大蛇であり、草薙剱の所有者。
八岐大蛇退治は逐降の原因。
時系列を逆転させて美談に転換したのは、山陰出雲に受け入れてもらうため。素戔嗚を山陰出雲に関連づけることで翡翠の産地を隠匿した。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 本伝:
高皇産霊が孫の瓊瓊杵を葦原中国の主にすべく天穂日を降ろすが音沙汰なく、次いで降ろした天稚彦も音沙汰なくて、無名雉を催促に遣わす。天稚彦は天探女の讒言を聞いて無名雉を射殺し、その矢が反矢となって天稚彦を射殺す。葬儀に弔問した友人の味耜高彦根は容姿が天稚彦と似ていたため遺族に故人と間違われ憤慨する。
高皇産霊は経津主と武甕槌を降ろす。二神に国譲りを迫られた大己貴は、事代主の進言を受けて要求を呑み、広矛を二神に授ける。二神は鬼神等を誅したのち、建葉槌を加えた三神で星神香香背男を討つ。
天降った瓊瓊杵は高千穂から笠狭之碕へ遊行して、鹿葦津姫(木花開耶姫)を見初め娶る。鹿葦津姫は一夜で孕み、瓊瓊杵に疑われ、姫は火を放った産屋で彦火火出見ら三子を産み潔白を証明する。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 一書第二:
天神に遣わされた経津主と武甕槌は天津甕星(天香香背男)を討ったのち降る。国譲りを迫ると大己貴が疑うので、二神は戻り報告する。高皇産霊は二神を還して大己貴に神事を治めよと勅し、天日隅宮・高橋浮橋・天鳥船・打橋・白楯を造り供えて天穂日が汝を祀ると告げる。大己貴は岐神を二神に薦め、隠者になる。
この時、大物主と事代主が八十万神を引連れ天に昇って誠款(誠と真心)を述べる。高皇産霊は娘の三穂津姫を大物主に娶らせて八十万神を統べさせ、御手代の太玉に祀らせる。これを天兒屋が太占で助ける。
高皇産霊は孫のために天兒屋と太玉を天忍穂耳の陪従とし、天照は天忍穂耳に宝鏡と稲穂を持たせ、陪従の二神に同床共殿を勅する。天忍穂耳が天降る途中で子の瓊瓊杵が生まれ、瓊瓊杵が降り、天忍穂耳は天へ還る。
高千穂に降りた瓊瓊杵は平地へ行き海浜で鹿葦津姫(木花開耶姫)を見初める。姫の父の大山祇は姉の磐長姫も勧めるが、瓊瓊杵は美人の妹だけを娶る。磐長姫は、もし妾を斥けなければ永く磐石に寿いだのにと言う。鹿葦津姫は一夜で孕み、瓊瓊杵に疑われ、姫は火を放った産屋で彦火火出見ら三子を産み潔白を証明する。

丹波大己貴と杵築大己貴

本伝と一書第二は、「天穂日の派遣」および「経津主と武甕槌が大己貴のもとへ派遣され国譲りを迫る」ことは共通するが、異なる点もある。

本伝は、天津甕星討伐を国譲り後とし、事代主を大己貴の子と明記する。
一書第二は、天津甕星討伐を国譲り前とし、事代主を大物主と同列に扱う。

大物主は越前素戔嗚を祖とする丹波大己貴の勢力であるから、本伝の大己貴は丹波大己貴、一書第二の大己貴は杵築大己貴と思われる。

時系列は、本伝(丹波大己貴)→天津甕星討伐→一書第二(杵築大己貴)の順であろう。本伝と一書第二の共通項になっている天穂日や経津主・武甕槌の派遣のほうに嘘があると考える。

天穂日

誓約で誕生した五男神には宇佐より東の交易路を想定する。
その一柱である天穂日は、先代旧事本紀の国造本紀にも出雲国造の祖と記される。東方の出身で山陰出雲に移住した人物が想定できる。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
出雲國造
瑞籬朝(崇神) 以天穂日命十一世 孫宇迦都久怒 定賜國造

高志-北九州間を瀬戸内航路で行き来するようになれば、山陰は交易ルートから外れ、利益を得る機会が減る。よって瀬戸内との関係強化は、山陰出雲にとってメリットがあると考えられる。

一方で西から東へ流れる対馬海流にのって着岸する大陸の船を警戒する防衛前線として、山陰は瀬戸内や高志にとって依然として重要な地域だったと考えられる。

瀬戸内・高志と山陰の関係強化は双方の望むところだったろう。
双方の意向を受けて、天穂日が山陰出雲の首長に就いたと考える。

武甕槌

春日大社の創始は768年(称徳[48])と伝わる。
東京都江戸川区にある鹿見塚神社は、鹿島大神(武甕槌)が常陸鹿島神宮から大和へ向かう途中、この地で倒れた供の鹿を葬った場所と伝わる。
この伝承から、記紀が成立するまでの武甕槌は常陸鹿島の神だったと思われる。

関東攻略の記録としては、崇神[10]紀に武渟川別東海道派遣のほか、「以豐城命令治東(豊城命を以て東を治め令める)」とある。豊城入彦は崇神の皇子だ。
また景行[12]紀は、その孫および曾孫である彦狭島・御諸別が東山道十五国都督に就任したと記す(八綱田・彦狭島父子に同一人物説があり、御諸別は豊城入彦の孫とも考えられる)。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
上毛野國造
瑞籬朝(崇神)皇子豊城入彦命 孫彦狭島命 初治平東方十二國為封
下毛野國造
難波高津朝御世 元毛野國分爲上下 豊城命四世孫奈良別 初定賜國造

丹波大己貴の国譲りは神武[1]即位以前の出来事と考えられるため、関東勢の武甕槌は関与できないだろう。よって武甕槌が関与した国譲りには杵築大己貴の一書第二を想定する。

経津主

石見国物部神社は、祭神の宇摩志麻遅が神武[1]即位後、石見国に入って凶賊を討伐したと伝える。宇摩志麻遅は饒速日の子だ。渡来船を監視する防衛前線としての山陰地方を出雲国が総括するために、出雲国と対立する近隣勢力を饒速日勢が排除したと考える。

そして山陰平定後、軍事氏族である物部氏が運営した山陰の防衛拠点が、物部神社の前身ではなかろうか。そこに駐留する兵力として、香取海周辺から人々が動員されたのかもしれない。

石見国一宮 物部神社 物部神社とは 御由緒
その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。

一説では、経津主は韴霊剱を神格化した存在と云う。
韴霊剱は神武[1]紀の「戊午年 夏 六月乙未朔丁巳」に、武甕槌が高倉下に託して神武へ届けさせたとある。
また、物部氏が祀る石上神宮祭神の布都御魂大神は、韴霊剱の霊威と云う。

饒速日の子である宇摩志麻遅が物部氏の祖なので、韴霊剱を手にした神武が饒速日勢ならば「経津主=宇摩志麻遅」と考えられる。

しかし垂仁[11]紀は、皇女の大中姫が物部連に石上の管理を任せたと記す。
また上述の神武[1]紀では、武甕槌が韴霊剱を「予平國之劒(予が国を平らぐ之剱)」と呼んで、所有権を主張している。

垂仁[11]紀八十七年春二月丁亥朔辛卯
遂大中姬命 授物部十千根大連而令治 故 物部連等 至于今治石上神寶 是其緣也

遂に大中姫命 物部十千根大連に授けて治め令める 故 物部連等 今に至り石上神宝を治める 是は其縁也

日本書紀の記述は、韴霊剱の所有権が物部氏にないことを示唆する。
のちに韴霊剱を奪われそうになった物部氏が、石上神宮拝殿の裏に埋めて隠したとする説も見聞きしたことはあるが、真相はわからない。

それでも、出雲国風土記は武甕槌を記さない。また国譲り本伝に、武甕槌が騒ぐので経津主に配したとあることから、本来の主体は経津主だったと思われる。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 本伝
熯速日神之子武甕槌神 此神進曰 豈唯經津主神獨爲丈夫而吾非丈夫者哉 其辭氣慷慨 故 以即配經津主神 令平葦原中國

熯速日神の子の武甕槌神 此の神が進み曰く 豈(あに)唯だ経津主神独りを丈夫と為して吾は丈夫に非ざる者哉 其の辭氣(じき、言いぶり)は慷慨(こうがい、激しく憤る) 故 以て即ち経津主神に配する 葦原中国を平らげ令める

古事記の建御名方

久比岐には、奴奈川姫が大国主から逃げて自死した伝承がある。
この逸話における奴奈川姫は稚日女および倭迹迹日百襲姫と同一、大国主は八千戈および素戔嗚、大物主と同一である。

しかし奴奈川姫とは久比岐の首長を表す称号であり、個人名ではないと考える。この逸話より後の世代にも、首長の座を受け継いだ奴奈川姫たちが存在した。そのなかに大国主を夫にして建御名方を生んだ奴奈川姫がいるのだろう。

久比岐の土器の出土傾向が北陸系と信州系であることから、山陰の杵築大己貴が父であるとは考えにくい。丹波大己貴ならば可能性はあるだろう。

ただし古事記が記す建御名方の父は大国主であり、大己貴に限定していない。神代上第八段(八岐大蛇)一書第六は大国主の別名に大物主、大己貴、葦原醜男、八千戈、大国玉、顕国玉を挙げている。大国玉や顕国玉が父ならば建御名方は出雲の血筋ではない。

建御名方を出雲系と括るのは今すぐ止めていただきたい。
出雲国風土記は大穴持の子として多くの神の名を挙げるが、そこに建御名方は含まれないことを無視してはならない。

建御名方と、能登半島先端の神奈備である御穂須須美を同一視するのも乱暴だ。
出雲国風土記は御穂須須美の父を「所造天下大神」と記すが、大穴持とは記さない。「所造天下大神」をすべて大穴持とするのは学者先生方の解釈の一種にすぎず、大国玉や顕国玉なども「所造天下大神」である可能性が高い。

また先述のとおり、武甕槌は丹波大己貴の国譲りには関与しなかったと考える。
したがって、建御名方が武甕槌に追われ諏訪へ敗走したとする古事記の逸話は、山陰出雲でも丹波でもないと思われる。

一方で、科野洲羽勢は弥生末期に関東の勢力とも交流した痕跡がある。
世の常として、交流は必ずしも友好関係を築けるとは限らない。出雲国譲りとは一切関係ない理由で、場所で、時期に、科野洲羽勢(建御名方)と香取海周辺の勢力(武甕雷)は敵対したのかもしれない。

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上記PDFの 第12図 に地名を書き加えた

あるいは。
利根川支流のひとつ吾妻川を遡上すれば上毛野の奥地である草津に至る。
毛野国造に任じられた御諸別が、科野国造に任じられた建五百建と国の境界線で揉めた可能性も考えられるだろう。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
科野國造
瑞籬朝(崇神)御世 神八井耳命孫建五百建命 定賜國造

ただし、かつて利根川河口は現・江戸川であり、東京湾へ注いでいた。鹿島神宮のある香取海から太平洋へ注ぐ河川改修が江戸時代に行われ、現在の利根川になる。
毛野の豪族が武甕槌に例えられるかは微妙なところだ。

弥生時代の科野と上毛野について補足

礫床木棺墓は、弥生時代中期から後期の科野に見られる埋葬形式。
金井下新田遺跡(群馬県渋川市)にも礫床墓があり、ヤマト建国以前における科野と上毛野の交流の痕跡と考えられている。