天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第五章 八岐大蛇

前回の要点:
丹生川上の祭祀で使用した土器の原料を採取したところの地名「埴安」は、武埴安彦を暗示するキーワード。
武埴安彦討伐と国見岳八十梟帥討伐と逐降は、同一の事変を描いている。
大彦=神武=高皇産霊
武埴安彦=国見岳八十梟帥=大国主(※)
大物主=八千矛=素戔嗚(※)
倭迹迹日百襲姫=奴奈川姫=稚日女
※武埴安彦=国見岳八十梟帥と大物主=八千矛=素戔嗚は同一と云えるが、登場するエピソードの主旨が異なるため分割した
大物主は、越前素戔嗚を祖として丹波大己貴を後裔とする地方勢力。
天岩戸日食は158年の日入帯食であり、阿波国の天磐戸神社が元ネタ。

神代上第八段 八岐大蛇:
天より降った素戔嗚は、八岐大蛇に呑まれる予定の娘とその両親に出会う。酒を用意させて八岐大蛇に飲ませ、酔わせて切り、尾から出てきた草薙剣は天照に献上した。その後、救った娘である奇稲田姫を娶り清に住んだ。

九頭龍大神

首に八つの股があるなら頭は九つだ。
先述したように、素戔嗚ゆかりの剱神社がある越前平野には九頭竜川が流れる。

長野盆地北部にある戸隠神社には、天岩戸が飛んできたという伝承があり、奥社に手力雄、中社に思兼、九頭龍社に九頭龍を祀る。九頭龍の祭祀は手力雄より古いと云う。

長野盆地北部は栗林式土器を作っていた。
時代を下って4世紀前半に高遠山古墳、そのあと盆地のなかほどに森将軍塚古墳を有する埴科古墳群が築造される。

戸隠神社の北東方向に黒姫山がある。黒姫は、奴奈川姫の母と同じ名だ。
久比岐の伝承では、奴奈川姫の夫だった松本の豪族は、大国主に殺されたと云う。

糸魚川市 奴奈川姫の伝説 その1(『西頚城郡の伝説』より) 10.市野々(いちのの)の地名
 奴奈川姫の夫は松本の豪族であったが、大国主命との間に争を生じた。豪族は福来口で戦い、敗けて逃げ、姫川を渡り、中山峠に困り、濁川(にごりがわ)の谷に沿うて、市野々に上って来た。登り切って、後を望み見た所が、今の「覗戸(のぞきど)」である。大国主命に追いつめられ、首を斬られてしまった。後祀られたのが今の「大将軍社」である。

犀川信濃川千曲川)の支流で、長野盆地にある分岐点から遡上して松本盆地に入った辺りに穂高神社がある。祭神の穂高見は、志賀島阿曇氏祖の宇都志日金拆と同一とされる。 栗林式土器に小松式土器の影響が認められることから、科野安曇氏は日本海へ出て高志の各地勢力と交流したと考えられる。

戸隠神社の九頭龍が八岐大蛇であり、その実体は科野安曇氏だろう。
記紀は八岐大蛇が大悪事を働いたように書いているが、八岐大蛇の段は素戔嗚に都合のよい語り口になっている。実際は、当時の婚姻ルールに則った妻問いだったのではなかろうか。

反対に、逐降と天岩戸の段は天照側に都合がよいことから、第七段(逐降)と第八段(八岐大蛇)はそれぞれ利害の相反する地域の伝承と見做せる。視点が違うのだから、二つのエピソードは時系列的に重複または逆転しても成立するだろう。

そして八岐大蛇退治のエピソードは、逐降の原因を素戔嗚側の視点で綴った話と解釈したほうが、諸々の筋が通る。

素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませ、酔わせて殺し、切り刻むと尾から草薙剱が出てきた。これは、科野安曇氏の交易船の乗員を酒宴に招いて酔わせ、殺し、奪った金品のなかに草薙剱があったと解釈できる。草薙剱は積荷か、あるいは科野安曇氏の身分を証明する所持品か。

素戔嗚は八千矛であり、神武東征では国見岳八十梟帥として登場する。
国見岳八十梟帥の残党は、道臣が酒宴に招いて騙し討ちにした。これは「目には目を」を実行した報復と解釈できる。

逐降では、諸神が素戔嗚を追放した。
複数の勢力が討伐に参加したのだから、よほどの理由があったはずだ。交易船の襲撃は充分な理由になるだろう。科野安曇氏の交易船は、久比岐から翡翠を運んでいた可能性がある。

出雲大神宮

逐降の原因を美化したエピソードである八岐大蛇退治が記紀に収録された理由は、丹波と山陰出雲、二勢力の大己貴にあると考える。

丹波国亀岡にある出雲大神宮の通称は「元出雲」といい、元明[43]の御代(707~715年)に大国主一柱を杵築大社に遷したと伝える。

Wikipedia 出雲大神宮 2021年6月転写
祭神の大国主神については、一般には出雲国出雲大社(杵築大社)から勧請したとされている。ただし社伝では逆に、出雲大社の方が出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。社伝では、『丹波国風土記逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとする(ただし、社伝で主張するのみでその逸文も不詳)。

――元明[43]の御代は西暦707年から715年。
712年(和銅5年) 古事記成立。
713年(和銅6年) 丹後が丹波から分国。
――元正[44]の御代は西暦715年から724年。
719年(養老3年) 丹後の籠神社が天火明を祀りはじめる。
720年(養老4年) 日本書紀成立。

記紀成立の頃、籠神社の祭祀も変化していることから、記紀の記述に合わせて丹波の祭祀を変えた可能性が疑われる。また後述するが、記紀成立時の山陰出雲は逐降で追われた素戔嗚を受容しなかった節がある。

出雲大神宮の伝承は正しく、丹波大己貴こそ越前素戔嗚の嫡流なのだろう。
それを偽り、山陰出雲に受け入れさせるために、八岐大蛇退治と云う美談に変えて、素戔嗚と大己貴の身上をきれいに整えたのではなかろうか。

記紀が越前素戔嗚を山陰出雲に関連づけようとした理由としては、翡翠の産地の場所を唐に知られないためだったのではないかと考える。

出雲国風土記

日本書紀は八岐大蛇を出雲国簸之川上(ひのかわかみ)の出来事と書くが、出雲国風土記は八岐大蛇について記さない。

杵築大己貴は、誓約で誕生した三女神のうち田心姫と湍津姫を妃にする。現代でも出雲大社は二柱の妃神を、須世理毘売と比べても遜色なく丁重に祀っている。
古代出雲は存外、北九州勢と近しい間柄だったのではなかろうか。

そして志賀島阿曇氏と科野安曇氏が示すように、地域伝承からは北九州と久比岐・科野の親しい関係性が窺える。古代出雲は、久比岐・科野にとって災いである越前の素戔嗚(八千矛)を快く思わなかったのかもしれない。

また出雲では3世紀から花仙山瑪瑙の採掘が盛んになる。玉石の産地としての意識が、久比岐に対する共感につながったのかもしれない。

出雲国一宮の熊野大社に祀る櫛御気野は素戔嗚と同一とされる。
しかし素戔嗚を「狗邪韓国をルーツとする氏族」と定義するなら、櫛御気野は素戔嗚だが八千矛ではないと解釈しても矛盾はない。

とはいえ小羽山30号墓が存在する以上、2世紀初めに出雲国越前国は交流していたと考えられる。あくまで記紀編纂時における出雲国の主張が「出雲国の素戔嗚は越前国の素戔嗚とは異なる」だったという推測だ。
実際問題として、八岐大蛇退治に出雲国が関与したか否かはわからない。