天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

大倭神社註進状:大地官と地主神を同一視する暴論

大倭神社註進状には偽書疑惑がある。

大倭神社註進状を読み解くにあたり閲覧した『古語拾遺』に、疑惑を深めるであろう書き込みを発見した。

向かって右のページ4行目「地主神営田之日」の左から始まる茶色い文字の書き込みだ。分かる範囲で書き起こした。

古語拾遺 除蝗祭 に書き込まれたテキスト
大己貴ニハアラジト見ユ其田ノ主神欤シカト不㝎

大己貴ではないと見える。其の田の主神かな?しかと不定

菅雄云地主神ニハアラジ大国主ナルベシ其ユエハ大和囗高市_御年神社ノ祝ハ姓氏录大和囗未㝎雑姓ノ内三年祝ハ大物主神五世孫意富多多泥古命ノ_也トアリテ大囗主ノ和魂大物主命ノ孫ヲ用ヒラレタルハコノ処ノ故事ニヨリテ用ヒラレタルナレバ_決シテ大国主トヨムベク覚ユ

菅雄は云う。地主神ではない。大国主としなさい。其の理由は、大和国高市_御年神社の祝は、姓氏録の大和国未定雑姓の内、三歳祝は大物主神五世孫意富多多泥古命の後なりとあるので、大国主の和魂の大物主命の孫が用いられたのは、この処の故事によって用いられたのだから_決して大国主と読むべきと覚えなさい。

この『除蝗祭』の故事に因んで大田田根子の後裔が三歳祝に選ばれたのだから地主神を大国主と読めと、菅雄センセイは仰っているらしい。

新撰姓氏録は、歳祝は大田田根子の後裔であると記すが、三歳祝に選ばれた根拠が除蝗祭だとは書いてない。

この古語拾遺の本は、書誌情報によれば文化年間(1804~1818、家斉[11])に出版された。この書き込みは、こじつけてでも大国主に置き換えるようにゴリ押しした勢力が1804年以降に存在したことを示唆するものと云えよう。

黒船来航が1853年。明治元年が1868年。
この時代、尊王思想を掲げる志士が長州から多く輩出されている。

長州は襲津彦所縁の地である可能性がある。
詳しくは『別記事:襲津彦についての仮説』に書いた。

日本書紀ではあまり良いふうには書かれてない葛城襲津彦を、尊王思想を掲げる長州志士は許容できなかったのではないか?
彼らには古代史を歪める動機があり、維新後には政治権力を手に入れた。

偽書と疑われる理由が、大倭神社註進状には存在する。

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国立国会図書館デジタルコレクション 古語拾遺 から複写

拙いながら大倭神社註進状を読み、注意を向けるべきと思う段落に私見を添えて下に掲載する。該当する段落は7つ。

一、蓋と伝聞
  大倭神社註進狀
謹考 舊記曰 大倭神社 在大和國山邊郡大倭邑 蓋 出雲杵築大社之別宮也 傳聞 倭大國魂神者 大己貴命之荒魂与和魂 戮力一心 經營天下 之地建得大造之績 在大倭豊秋津國 守國家 因以号曰倭大國魂神 亦曰大地主神 以八尺瓊 異作鏡 爲神躰奉斎焉

  大倭神社註進状
謹考 旧記は曰く 大倭神社 大和国山辺郡大倭邑に在り 蓋 出雲杵築大社の別宮也 伝え聞く 倭大国魂神は 大己貴命の荒魂と和魂 戮力一心 経営天下 之地 建てて大造の績を得る 大倭豊秋津国に在り 国家を守る 因て以て号を曰く倭大国魂神 亦た曰く大地主神 八尺瓊を以て 異は作鏡 神躰と為し奉斎する焉

蓋(けだし)の後には著者の考えが記される。
つまり、大倭神社は出雲杵築大社の別宮であると、大倭神社註進状の著者が考えた。著者の個人的な意見にすぎない。

この著者は、倭大国魂が大己貴の荒魂和魂であると、誰かから聞いたそうだ。あくまで伝聞情報である。

二、日本書紀には存在しないエピソード
日本書紀家牒曰 腋上池心宮御宇天皇 孝昭 元年秋七月甲寅朔 遷都於倭國葛城 丁卯 天皇 夢有一貴人 對立殿戸 自称大己貴命曰 我和魂 自神代鎮御諸山 而 助神器之昌運也 荒魂服王身 在大殿内 而 爲宝基之衛護 即得神教 而 天照大神 倭大國魂神 並祭於天皇大殿之内

日本書紀家牒は曰く 腋上池心宮御宇天皇 孝昭 元年秋七月甲寅朔 都を倭国葛城に遷す 丁卯 天皇 夢に一貴人有り 対し殿戸に立つ 自ら大己貴命を称し曰く 我の和魂 神代より御諸山に鎮まる 而 神器の昌運(しょううん、盛んな運命)を助ける也 荒魂は王身に服する 大殿内に在る 而 宝基の衛護を為す 即ち神の教えを得る 而 天照大神倭大国魂神 並べて天皇の大殿の内に祭る

日本書紀家牒は、日本書紀とは別物と考えるほかないだろう。

実在したとは思わないが。
大己貴が夢に出たから倭大国魂を天照に並べて祀ったというエピソードを綴った書物が実在したのなら、先の段落で、倭大国魂神大己貴命の荒魂和魂であると『断言』できたはず。
冒頭に「伝聞」と記すのは、裏付けになる文献が存在しないからだろう。

磯城瑞籬宮御宇天皇 崇神 六年 百姓流離 或有背叛 其勢難以徳治之 是以 晨興夕惕 請罪神祇 先是 天照大神 倭大國魂神 両神 並祭於天皇大殿之内 然 畏其勢 共住不安 秋九月己酉朔乙丑 天照大神 託豊鋤入姫命 祭於倭國笠縫邑 仍立磯城神籬 亦 倭大國魂神 託渟名城入姫命 祭於同國市磯邑 後改名曰大倭邑 然 渟名城入姫 髮落體痩 而 不能

磯城瑞籬宮御宇天皇 崇神 六年 百姓は流れ離れる 或いは背叛有り 其の勢いは徳を以て治め難い之 是以 晨(朝)に興(おこ)り夕に惕(おそ)れる 神祇に請罪する 先是 天照大神倭大国魂神両神 並べて天皇の大殿の内に祭る 然 其の勢いを畏れる 共に住むは不安 秋九月己酉朔乙丑 天照大神 豊鋤入姫命に託す 倭国笠縫邑に祭る 仍ち磯城神籬を立てる 亦 倭大国魂神 渟名城入姫命に託す 同国市磯邑に祭る 後に名を改め曰く大倭邑 然 渟名城入姫 髪は落ち体は痩せる 而 祭るに能わず

七年秋八月癸卯朔己酉 穗積臣遠祖大水口宿祢等 共同夢而奏言 昨夜夢 有一貴人誨曰 以市磯長尾市 爲祭倭大國魂神之主 必天下太平矣 天皇 得夢辞 益歡於心 朕當榮樂 乃卜 使物部連祖伊香色雄 爲神班物者 吉 之冬十二月辛丑朔丁卯 命伊香色雄 而 以物部八十手 所作祭神之物 即以大倭直祖長尾市 爲祭倭大國魂神之主 定神地神戸 於是 疫病始息 國内漸謐 五穀既成 百姓饒之

七年秋八月癸卯朔己酉 穂積臣遠祖の大水口宿祢等 共に同じ夢みて奏し言う 昨夜の夢 一貴人有り 誨え曰く 市磯長尾市を以て 倭大国魂神を祭る之主と為す 必ず天下太平矣 天皇 夢の辞を得る 益(ますます)心に歓ぶ 朕は当に栄楽 乃ち卜う 物部連祖の伊香色雄を使い 神班物者と為す 吉 之冬十二月辛丑朔丁卯 伊香色雄に命じる 而 以て物部八十手 作る所の祭神の物 即ち大倭直祖の長尾市を以て 倭大国魂神を祭る之主と為す 神地神戸を定める 於是 疫病は始息 国内は漸(ようや)く謐(しず)まる 五穀は既に成る 百姓は饒(ゆた)かになる之

三、大地官と地主神を同一視する暴論
纏向珠城宮御宇天皇 垂仁 二十七年九月戌申朔甲子 以皇女倭姫命爲御杖代 貢天照大神 倭姫命 隨神誨 立宮於伊勢國渡遇五十鈴川 上奉遷焉 是時 倭大國魂神 著大水口宿祢 而 誨之曰 太初之時期 曰 天照大神 悉治高天原 皇御孫尊 專治葦原中國之八十魂神 我親治大地官者 言已訖焉 云々 大地主神之号 起于是時矣

纏向珠城宮御宇天皇 垂仁 二十七年九月戌申朔甲子 皇女の倭姫命を以て御杖代と為す 天照大神に貢ぐ 倭姫命 神の誨えの隨に 宮を伊勢国に立て 渡りて五十鈴川上に遇い 遷し奉る焉 是時 倭大国魂神 大水口宿祢に著る 而 之を誨え曰く 太初の時期 曰く 天照大神 悉く高天原を治める 皇御孫尊 専ら葦原中国の八十魂神を治める 我は親(みずか)ら大地官の者を治める 言は已訖(終わる)焉 云々 大地主神の号 是時に起こる矣

「云々」より前部分のエピソードは、日付は異なる(垂仁紀は二十五年三月)が、日本書紀の記述に適う。しかし大地主神についての一文は、日本書紀には存在しない。

地主神には猿田彦などが挙げられる。
倭大国魂が治める大地官と地主神を同一視することが如何に乱暴な解釈か、ご理解いただきたい。

類聚國史曰 嘉祥三年冬十月乙巳朔辛亥 進大和國大國魂神階 授従二位 貞觀元年春正月戌午朔甲申 奉授大和國従二位 大和大國魂神従一位
新國史曰 寛平九年冬十二月壬寅朔甲辰 奉授五畿七道諸神三百四十社各位一階 官符云 大和國大和大國魂神 奉授正一位

類聚国史は曰く 嘉祥三年冬十月乙巳朔辛亥 大和国大国魂神に階を進む 従二位を授ける 貞觀元年春正月戌午朔甲申 奉りて大和国従二位を授ける 大和大国魂神は従一位
国史は曰く 寛平九年冬十二月壬寅朔甲辰 奉りて五畿七道諸神三百四十社各位一階を授ける 官符は云う 大和国大和大国魂神 奉りて正一位を授ける

神名帳曰 大和國山辺郡大和 坐 大國魂神社三座 名神大月次相甞新甞
相殿神二座
八千矛神 御歳神

神名帳は曰く 大和国山辺郡大和 坐 大国魂神社三座 名神大月次相甞新甞
相殿神二座
八千矛神 御歳神

四、伝聞
傳聞 八千矛神者 大己貴命 以廣矛爲杖令撥 平豊葦原中國之邪鬼 是時 大己貴命 号曰八千矛神 神代巻曰 大己貴命 即以平國時 所杖之廣矛 獻皇孫 曰 吾以此矛有治功 皇孫 若用此矛治國者 必當平安 今 我當於百不足之八十隈 將隱去矣 言訖 即躬被瑞之八坂瓊 而 長隱 常世郷者矣 此矛 亦上古 在天皇大殿之内 其藏齋爲八千矛神之神躰

伝え聞く 八千矛神は 大己貴命 廣矛を以て杖と為し撥(おさ)め令める 豊葦原中国の邪鬼を平げる 是時 大己貴命 号は曰く八千矛神 神代巻は曰く 大己貴命 即ち以て国を平らぐ 時 杖とする所の廣矛 皇孫に献じる 曰く 吾は此矛を以て治める功有り 皇孫 若し此矛を用い国を治めるなら 必ず当に平安 今 我が百足らず之八十隅(ヤソクマチ)に当たる 将(ひき)い隠れ去らん矣 言い訖(終)える 即ち躬(身)に瑞之八坂瓊を披(ひろ)げる 而 長く隠れる 常世郷の者矣 此矛 亦た上古 天皇の大殿の内に在り 其の蔵斎は八千矛神の神躰と為る

「伝聞」として記されるが、「以廣矛爲杖令撥」から「將隱去矣 言訖」までは日本書紀の国譲り本伝と類似、続きから「而 長隱」までは国譲り一書第二に類似する記述がある。

伝え聞いたと思われる部分は二か所。
八千矛神者 大己貴命」と「此矛 亦上古 在天皇大殿之内 其藏齋爲八千矛神之神躰」だろう。

神代上第八段(八岐大蛇)一書第六に、大国主の別名が列記され、そのなかに八千戈と大己貴が含まれている。なので乱暴に区分すれば、八千戈=大己貴と言えなくもない。気に入らないが、間違いと言いきれない部分だ。
しかし乱暴な解釈であることを強調したい。あえて八千戈を祭神に掲げる神社が多く存在する現状を無視している。

大己貴から授かった廣矛を八千矛の神体として皇居に安置した件については、日本書紀を読む限りでは、裏付けになる記述は無い。
八千戈は、日本書紀では大国主の別名の一つとして記されるのみだ。

御歳神者 守護禾穀神也 是以 八握嚴稲爲神躰 古語拾遺曰 大地主神 營田之日 御年神 獻白猪白馬白雞奉 謝無蝗虫之災年 穀豊稔 故 至今 天子 以白猪白馬白雞 毎年 祭御歳神也

御歳神は 禾穀(かこく)を守護する神也 是以 八握厳稲が神躰と為る 古語拾遺は曰く 大地主神 営田の日 御年神が 白猪白馬白雞を献じ奉り 蝗虫の災無しに謝する年 穀は豊かに稔る 故 今に至る 天子 白猪白馬白雞を以て 毎年 御歳神を祭る也

類似のエピソードが古語拾遺に収録されている(上述の除蝗祭)。

別社
挾井神社 在大和國城上郡
五、伝聞(荒魂)
傳聞 挾井神者 大己貴命之荒魂 大國魂神 即當社別社也

伝え聞く 挟井神は 大己貴命の荒魂 大国魂神 即ち当社の別社也

大和神社はホームページに 狭井神社檜原神社は共に明治10年以降大神神社社の摂社となりましたが、その以前は大和神社と大いに関係があり狭井神社は別社であったようです。(『日本の神々 -神社と聖地- 4 大和』) と記載している(2021年10月時点)。

文脈的に、大国魂は大己貴の荒魂であると読める点に留意してもらいたい。

六、係争中案件
日本書紀曰 倭大神 著穗積臣遠祖大水口宿祢 而 誨之曰 太初之 云々 然 先皇御間城天皇 崇神 雖祭祀神祇微細 未採其源根 以粗留於枝葉 故 其天皇短命也 是以 今 汝皇御孫尊 垂仁 悔先皇之不及 而 愼祭 則汝尊壽命延長 復 天下太平矣 時 天皇聞是言 則仰中臣連祖探湯主 而 卜之 誰人以令祭大倭大神 即渟名城稚姫命 食卜焉 因以 命渟名城稚姫命 定神地於穴磯邑 祠於大市長岡岬 然 是渟名城稚姫命 既身體悉痩弱 以不能祭 是以 命大倭直祖長尾市宿禰 令祭矣 所謂 太市長岡岬 今挾井社地 是也

日本書紀は曰く 倭大神 穂積臣遠祖の大水口宿祢に著る 而 之を誨え曰く 太初之 云々 然 先皇の御間城天皇 崇神 神祇を祭祀すると雖も微細 未だ其の源根を採らず 以て粗く枝葉に留まる 故 其の天皇は短命也 是以 今 汝の皇御孫尊 垂仁 先皇の及ばざるを悔い 而 慎み祭る 則ち汝の尊の寿命は長く延びる 復 天下太平矣 時 天皇は是言を聞く 則ち中臣連祖の探湯主を仰ぎ 而 之を卜う 誰人を以て大倭大神を祭ら令める 即ち渟名城稚姫命 食卜焉 因以 渟名城稚姫命に命じる 神地は穴磯邑 祠は大市長岡岬に定める 然 是の渟名城稚姫命 既に身体は悉く痩せ弱る 以て祭るに能わず 是以 大倭直祖の長尾市宿祢に命じ 祭ら令める矣 所謂 太市長岡岬 今は挟井社地 是也

「命大倭直祖長尾市宿禰 令祭矣」までは垂仁紀に類似の記述がある。
大市長岡岬に比定される場所は今も特定されてない。

神名帳曰 大和國城上郡挾井 坐 大神荒魂神社 五座
相殿神四座
大物主神
七、伝聞(荒魂)
傳聞 大物主神者 大己貴命之和魂也 神代巻曰 大己貴神問曰 汝是 誰耶 對曰 吾是 汝之幸魂 遊魂 奇魂 鎮魂 也 大己貴神曰 唯然廼知 汝是 吾之幸魂奇魂 今 欲何處住耶 對曰 吾欲住於日本國之三諸山 以上 和魂荒魂 問答言語也 故 即營宮彼處使就 而 居此 大三輪之神也 此神之子姫蹈韛五十鈴命

伝え聞く 大物主神は 大己貴命の和魂也 神代巻は曰く 大己貴神が問い曰く 汝は是 誰耶 対し曰く 吾は是 汝の幸魂 遊魂 奇魂 鎮魂 也 大己貴神は曰く 唯然り 廼(すなわ)ち汝は是と知る 吾の幸魂奇魂 今 何処に住むを欲する耶 対し曰く 吾は日本国の三諸山に住むを欲する 以上 和魂荒魂 問答言語也 故 即ち宮を彼処に営み就か使める 而 此に居る 大三輪の神也 此神の子は姫蹈韛五十鈴命

「伝聞」としているが、日本書紀の神代上第八段(八岐大蛇)一書第六に類似する。ただし日本書紀は和魂荒魂は書かず、幸魂奇魂のみ書いている。
大物主は大己貴の荒魂であると、大倭神社註進状の著者は誰かから聞いた。

先述の挟井神社のところに、大国魂は大己貴の荒魂であると読める記述があることを思いだしてほしい。大倭神社註進状らしい乱暴さで解釈するなら、大国魂=大物主である。

神名帳曰 大和國城上郡 大神大物主神社 一座 名神大月次相甞新甞

神名帳は曰く 大和国城上郡 大神大物主神社 一座 名神大月次相甞新甞

姫蹈韛五十鈴命
勢夜多良比賣
古事記 三嶋湟咋之女 名勢夜多良比賣 溝橛姫 攝津国三嶋之人 神名帳 攝津國島下郡溝咋神社一座 其容姿麗美 故 美和之大物主神 聚其人生子 名謂比賣多々良伊須々余理比賣 故 謂大神御子也 其伊須々余理比賣之家 在挾井川之上 神倭伊波礼毘古天皇幸行 比賣之許一宿 御寝坐 後 参入宮内 阿礼坐御子名 神沼河耳命 綏靖天皇 神名帳曰 大和國添上郡 率川坐大神御子神社 三座

古事記 三嶋湟咋の女 名は勢夜多良比売 溝橛姫 摂津国三嶋の人 神名帳 摂津国島下郡溝咋神社一座 其の容姿は麗美 故 美和の大物主神 其人を聚め生む子 名は比売多々良伊須々余理比売と謂う 故 大神の御子と謂う也 其の伊須々余理比売の家 挟井川の上に在る 神倭伊波礼毘古天皇が幸行し 比売の許に一宿 御寝坐 後 参りて宮内に入る 阿礼坐(あれます)御子の名は 神沼河耳命 綏靖天皇 神名帳は曰く 大和国添上郡 率川坐大神御子神社 三座

事代主神
神代巻曰 事代主神 大己貴命子 化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云玉櫛姫 而 生兒姫蹈韛五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦天皇神武之后也

神代巻は曰く 事代主神 大己貴命の子 八尋熊鰐に化け為る 三嶋溝樴姫に通じ 或いは云う玉櫛姫 而 生む兒は姫蹈韛五十鈴姫命 是は神日本磐余彦天皇 神武 の后と為る也

これも日本書紀の神代上第八段(八岐大蛇)一書第六に類似の記述がある。

養老令曰 季春鎮華祭 義解謂 大神挾井二祭也 在春華飛散之時 疫神分散而行病 爲其鎮遏 必有此祭 故 曰鎮華祭 集解曰 大神挾井二處祭 挾井者大神之 麁御霊也 此祭之華散之時 二神共散 而 行疫已 爲心此 故 祭之也

養老令は曰く 季春鎮華祭 義解は謂う 大神と挟井の二祭也 春華に在り飛散の時 疫神が分散して行病 其の鎮め遏(とど)めるを為す 必ず此祭有り 故 曰く鎮華祭 集解は曰く 大神と挟井の二処が祭る 挟井は大神の麁(あら)御霊也 此祭の華散る之時 二神が共に散る 而 行疫は已(や)む 為心此 故 祭之也

延喜式曰 三月鎮花祭二座 大神社一座 挾井社一座 付祝等 令供祭 又曰 不定日者 臨時擇日祭之 大神祝部者 大三輪君等也 挾井祝部 大倭直等也

延喜式は曰く 三月鎮花祭の二座 大神社一座 挟井社一座 祝等を付け 祭を供え令める 又曰く 日を定めずは 擇(えら)んだ日の時に臨み之を祭る 大神祝部は 大三輪君等也 挾井祝部 大倭直等也

挟井神社については上述。

丹生河上神社一座 在同國吉野郡
此神者 雨師神也 祈雨止霖 奉幣 不過當社 神名帳曰 大和國吉野郡 丹生川上神社一座 名神大月次新甞

此神は 雨師(うし、古代中国の雨神)神也 雨を祈り霖(長雨)を止める 幣を奉る 不過当社 神名帳は曰く 大和國吉野郡丹生川上神社一座  名神大月次新甞

類聚國史曰 天平寶字七年夏五月庚午 奉幣帛于四畿内郡神 其丹生河上神者 加黒毛馬旱也 寶亀六年秋九月辛亥 遣使 奉白馬及幣於丹生川上神 依霖雨也 弘仁九年夏四月丁酉 遣使 大和國吉野郡雨師神 奉授従五位下 以祈雨也 云々 元慶元年夏六月庚午朔壬辰 授従三位 丹生川上雨師神 正三位

類聚国史は曰く 天平宝字七年夏五月庚午 幣帛を四畿内郡神に奉る 其の丹生河上神は 加黒毛馬 旱(ひでり)也 宝亀六年秋九月辛亥 使を遣わす 白馬及び幣を丹生川上神に奉る 霖雨に依る也 弘仁九年夏四月丁酉 使を遣わす 大和国吉野郡の雨師神 奉りて従五位下を授ける 以て雨を祈る也 云々 元慶元年夏六月庚午朔壬辰 従三位を授ける 丹生川上雨師神 正三位

新國史曰 寛平九年冬十二月壬寅朔甲辰 奉授五畿七道諸神三百四十社各位一階 官符曰 大和國丹生川上雨師神 奉授従二位
正一位授冠年月未考

国史は曰く 寛平九年冬十二月壬寅朔甲辰 奉りて五畿七道諸神三百四十社各位一階を授ける 官符は曰く 大和国丹生川上雨師神 奉りて従二位を授ける
正一位授冠年月未考

延喜式曰 凡 奉幣 丹生川上神者 大和社神主隨使 向社奉之 是 丹生川上神社 爲當社之別宮也

延喜式は曰く 凡 幣を奉る 丹生川上神は 大和社神主が使に隨(したが)い 社に向き之を奉る 是 丹生川上神社 当社の別宮と為る也

依國守貴命 而 古來祕傳 参考 國史家牒 述作者也 攝社末社 祭礼次第 別記 載之 仍註進狀如件

国守の貴命に依り 而 古来秘伝 参考 国史家牒 述作する者也 摂社末社 祭礼次第 別記 之に載せる 仍ち註進状如件

仁安二丁亥年
 二月十三日     祝部大倭直盛繁謹書(花押)
獻上 草案不可有他見可祕 /\ /\

総括: 冒頭に「伝聞」と記された段落は、文献の裏付けがある逸話に出所不明の情報を少量混ぜ込んでいる。きつい表現をするが、これは詐欺の手口だ。