天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話序章 自説の骨子

神代紀の誓約から国譲りまでは、倭国大乱を描いている。
神武[1]紀の東征は、倭国大乱のころの近畿地方中部地方を描いている。
崇神[10]紀には、神武東征の記述を改竄したような倭国大乱の記述がある。
これを読み解くにはコツが必要だ。

コツを押さえれば日本書紀は、ヤマト建国の立役者は淡路勢と久比岐勢であると読める。それを読めなくさせた要因は3つ。

(1) 久比岐(糸魚川)が翡翠の産地であることを忘れた。
(2) 淡路島に先進的な製鉄施設が存在したことを忘れた。
(3) 古事記の嘘に振り回された。

(1)は昭和初期、(2)は平成半ばに発見・認知されたため、もはや障壁たりえない。
残る問題は(3)のみ。

日本書紀に記された倭国大乱を読み解くには、古事記の記述を否定しなければならない。古事記を拠り所に古代史観を構築している方々には受け入れ難かろう。

また、国譲り神話だけを見て、大国主判官贔屓したくなる大衆心理もある。
しかし記紀成立から今日まで、大国主がマイノリティだったことはない。
現代の実状は、行き過ぎた大国主贔屓によって、久比岐は神を奪われている。

倭大國魂神を久比岐に返したい。
そう思って、筆者はこの文章をしたためている。

第一のコツ『神は地方勢力』

弥生時代終盤は、平野に住む集団が近隣同士で統合して大きな勢力を形成した。平和的に合併する場合もあれば、侵略戦争もあっただろう。神代紀の誓約から国譲りまでは、倭国大乱に関与した大勢力の動向を、神々の行動に置き換えた物語だ。

天照   ……北九州勢
素戔嗚  ……狗邪韓国勢、および越前勢
高皇産霊 ……淡路勢
饒速日  ……伊勢勢
長髄彦  ……紀伊

大国主  ……淡路・久比岐勢の対立勢力である首長たちの総称
八千矛  ……越前勢の首長
葦原醜男 ……畿内勢の首長
大己貴  ……丹波勢および山陰出雲勢の首長

奴奈川姫 ……久比岐勢の首長
椎根津彦 ……久比岐海人族の青海氏、畿内へ分家して倭氏
高倉下  ……越中東部の海人族、東海へ分家して尾張氏

二柱の大己貴が、丹波勢(丹波国一宮 出雲大神宮)と出雲勢(出雲国一宮 出雲大社:明治に杵築大社から改名)それぞれに存在した。ここでは前者を丹波大己貴、後者を杵築大己貴と呼んで区別する。

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日本書紀版ヤマト建国神話の主要勢力

第二のコツ『倭は二か所に跨る』

北九州、および翡翠産地である久比岐・科野・越中東部が倭国だ。
二つの倭国に挟まれて、大国主が治める葦原中国がある。

第三のコツ『出雲は神を盗む 大和は人を盗む』

味耜高彦根 ……大和磯城郡に由来する神
御穂須須美 ……能登珠洲岬に由来する神/須須神社
建御名方  ……久比岐勢の武人/諏訪大社

もし山陰の出雲国と関わりが深ければ山陰系土器が多く出土するはずだが、久比岐から出土する弥生後期の土器の傾向は、北陸系と信州系だ。御穂須須美と建御名方が杵築大己貴の子である可能性は低い。

吉備津彦 ……吉備勢/孝霊[7]の皇子
大彦   ……淡路勢/孝元[8]の皇子
倭迹迹日百襲姫 ……久比岐勢/孝霊[7]の皇女

吉備勢は、安芸勢と並ぶ山陽の雄であり、吉備津彦はその首長。
淡路勢は、北九州から淡路島に入植した集団であり、大彦はその首長。
久比岐勢は、翡翠産地の在地勢力で、倭迹迹日百襲姫は奴奈川姫のこと。

記紀は、各地の首長を皇統に取り込むことで、太古の昔から畿内が周辺地域に対して強い先導力を行使していたように見せかけたのではなかろうか。

第四のコツ『地名由来譚を鵜呑みにしない』

號彼地曰竹屋 ……国譲りと天孫降臨 一書第三
因改号其津曰盾津 ……神武紀 東征 夏四月丙申朔甲辰
号其山曰那羅山 ……崇神紀 十年 九月丙戌朔 壬子

上記のような、エピソードと地名を関連づける一文を重視しない。

地名は日本書紀編纂後に、日本書紀の記述に沿って変えられた可能性がある。極端な例では、福井県に「高浜町事代」が存在するが、調べてみるとこの地名は近代の命名らしく、事代主との関連を示す証拠ではないようだ。

地名由来譚のすべてを虚構と断ずるわけではない。しかし、高志および若狭湾周辺にはヤマト建国に関わる伝承があり、これらは先代旧事本紀巻第十の国造本紀などとも整合性がとれている。

大和は、随所に差し挟まれた地名を畿内各地に命名することで、太古の昔からヤマトの中心が畿内に在ったように見せかけたのではなかろうか。

第五のコツ『神武は淡路勢と饒速日勢の合成キャラ』

国見岳での祭祀が、饒速日勢から淡路勢への切り換え点になる。
祭祀に際して神武は道臣に今 以高皇産靈尊 朕親作顯齋と言う。顕斎(うつしいわい)とは神に見立てる人間のことで、神武はこのとき自分を高皇産霊に見立てた。これは神武の中身が淡路勢(高皇産霊)に替わったと解釈する。

国見岳以降の神武は淡路勢であり、個人としては概ね大彦が該当する。

国見岳より前、難波到達からの神武は饒速日勢であり、九州から伊勢に入植して、高倉下(尾張氏)と交流をもった。高倉下は越中東部・飛騨高山・尾張を活動域にしていた海人族と思われる。

それより前、椎根津彦(久比岐勢)を水先案内にして筑紫を出立した神武は淡路勢だ。このエピソードは、北九州から淡路島へ進出した目的が、久比岐が産出する翡翠であることを示す比喩だろう。

第六のコツ『平定は制圧と解釈する』

戦後の大国主贔屓の根底には、大和に屈服させられた可哀そうな出雲、という論調が存在するようだ。昭和末頃には、大国主は広大な地域を支配した大王であり、各地の有力氏族の娘との婚姻により平和的に勢力を拡大した、などとテレビや出版物が広めたこともある。

だが常識的に考えて男女比はおよそ1対1。外へ妻問いに出る男もいれば、外から妻問いを受ける女もいたはずだ。もし大国主一族の女が外部の男を夫にしなかったのなら、何世代も近親婚を繰り返したか、自分より身分の低い男を夫にしたことになる。前者は遺伝的に問題があり、後者は王族の価値を下げる恐れがある。

首長氏族の妻問いはお互い様であり、これにより上下関係が生じることはないだろう。つまり、婚姻は支配地域の拡大につながらない。勢力間に序列が生じる原因は戦争、または技術や物資など利益の授与が一般的だろう。

弥生時代は、大陸文化を取り入れやすい西側のほうが文化レベルが高い。
そして弥生中期にはすでに高志の玉石が北九州で利用されていることから、高志には西の先進文化を自力で取り入れるポテンシャルがあったと考える。

ましてや高志の東端にある久比岐と越中東部は翡翠の産地であり、遺跡出土品から深い交流が認められる科野には、志賀島阿曇氏の祖である宇都志日金拆と同一視される穂高見を祀る穂高神社がある。
大国主から利益を与えられて有難がる理由など無い。

もしも大国主が広大な地域を支配したとするなら、それは武力で他勢力を従えた結果だろう。可哀そうな平和主義の巨大勢力・出雲など存在しえない。

政治思想を挟みたくはないが、戦後日本では非現実的な平和主義ほど声が大きく、そのなかで大国主が贔屓されてきた実状に留意する必要があると思う。