天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

出雲大社(杵築大社)に思うこと

当ブログの『建国神話を読む』シリーズをしっかり読んでくださらない方々は意外に思われるだろうが、現在、ブログ筆者である比佐安田に出雲大社(杵築大社)を批判する意図は一切ない。

なぜなら出雲大社の有りようは高志や丹波の伝承と融和するからだ。筆者が批判しているのは、江戸後期に台頭した西国出身の維新志士が解釈を歪めてしまったこと、そして戦後から左巻きがその歪みを悪用していることである。

日本書紀神代上の巻末(第八段の一書第六)には、大己貴が大物主と邂逅するエピソードが記されている。この部分の著者は出雲大社に縁のある人物だろうと筆者は考える。冒頭に列記される大国主の別名のなかで、大己貴だけが「命」であることが理由だ。尊称には「神>尊>命」の序列がある。著者が身内であるゆえに謙遜したのではないかと思う。

神代上第八段(八岐大蛇) 一書第六
一書曰 大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神 其子凡有一百八十一神

一書に曰く 大国主神 亦の名を大物主神 亦の號は国作大己貴命 亦曰く葦原醜男 亦曰く八千戈神 亦曰く大国玉神 亦曰く顕国玉神 其の子は凡(すべ)て一百八十一神有り

葦原醜男には「命」さえ付与されない。
出雲大社と縁があるために、葦原醜男も謙遜されているのだろう。葦原醜男の妃である須世理毘売は出雲大社でも妃神として祀られている。

大己貴が大物主と邂逅する場面を要約すると。
国造りの大業半ばで相棒の少彦名が常世鄕へ去ってしまい、大己貴は残る大業を一人で成し遂げて出雲国に到る。そこで、共に天下を治める者がいるだろうと言うと大物主が現れ、幸魂奇魂を名乗る。

神代上第八段(八岐大蛇) 一書第六
于時 神光照海 忽然有浮來者 曰 如吾不在者 汝 何能平此國乎 由吾在 故 汝得建其大造之績矣 是時 大己貴神問曰 然則汝 是誰耶 對曰 吾是 汝之幸魂奇魂也 大己貴神曰 唯然 廼知汝是 吾之幸魂奇魂 今 欲何處住耶 對曰 吾欲住於日本國之三諸山 故 即營宮彼處 使就而居 此大三輪之神也

于時 神光が海を照らす 忽然と浮き来る者有り 曰く 如(も)し吾が在らずば 汝 何ぞ能く此国を平らぐ乎 由(理由)は吾が在る 故 汝は其の大造の績を建て得る矣 是時 大己貴神は問い曰く 然らば則ち汝 是は誰耶 対し曰く 吾は是 汝の幸魂奇魂也 大己貴神は曰く 唯然り 廼(すなわ)ち汝は是と知る 吾の幸魂奇魂 今 何処に住むを欲する耶 対し曰く 吾は日本国の三諸山に住むを欲する 故 即ち彼の処に宮を営む 就か使めて居る 此は大三輪の神也

このくだりを漢文のままに読めば、大己貴の態度がそっけないと感じるだろう。
少彦名の細やかな描写に比べ、大物主の描写はありきたりで見劣りする。

大物主「吾がいるから汝は平国を成し得た」
大己貴「どちら様?」
大物主「吾は汝の幸魂奇魂」
大己貴「唯然り。吾の幸魂奇魂。で、何処に住みたいの?」
大物主「日本国の三諸山に住みたい」

この大己貴の塩対応ぶりが、当時の出雲大社が大物主へ抱いていた心証なのだろうと筆者は考える。そしてこの精神は、現代の出雲大社にも引き継がれていると思う。

出雲大社は本殿の隣りに須勢理比売と多紀理比売を、大国主の妃として祀る。 大物主妃の三穂津姫は、事代主と並んで美保神社に祀られている。出雲大社は大己貴と大物主を異なる存在とみているのだろう。神代上第八段(八岐大蛇)一書第六も、対面して会話する程度に別人格だ。

須勢理比売は、古事記によれば葦原醜男の妃だ。筆者は葦原醜男を、先代旧事本紀巻五の天孫本紀が記す宇摩志麻遅の子孫に「シコ」を含む名(出雲醜大臣、欝色雄、伊香色雄など)が見られることから、畿内大国主と推測している。

出雲醜大臣の伯父が味饒田で、名前の意味は味耜高彦根と同じと思われる。
味耜高彦根は、出雲国風土記によれば多紀理比売が生んだ大己貴の子だ。また宇摩志麻遅は物部氏の祖であり、出雲の隣国の石見にある物部神社に祀られている。

経津主は韴霊剱の神格という。韴霊剱は石上神宮物部氏が祀る。石上神宮の社伝では、宇摩志麻遅が神武に命じられて宮中で韴霊剱を祀り、のちに伊香色雄が石上に遷座して祀ったという。

石上神宮 主祭神 布都御魂大神
またその後では、神武(じんむ)天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、無事大和(奈良県)にご到着されるのをお助けになられた剣でもあります。
神武天皇は御即位された後、その御功績を称えられ、物部氏の遠祖 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じて宮中にてお祀りされました。第10代崇神天皇の7年に勅命によって、物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷ししてお祀りしたのが当神宮の創めです。

しかし日本書紀の垂仁[11]紀三十九年冬十月は、はじめは垂仁皇子の五十瓊敷が石上神宮の神宝を掌っていたと記す。五十瓊敷から職を譲られた妹の大中姫がこれを厭い、物部十千根に授けた。

一云には別の説が記される。忍坂にあった五十瓊敷の大刀一千口を石上に移したとき神のお告げがあり、物部首の始祖である市河に治めさせた。こちらは本文より石上神宮の伝承に通じる部分があるだろう。宇摩志麻遅を物部氏の祖の集合体と解釈するなら、市河も宇摩志麻遅の一部と見做せる。

だが大中姫が介在する本文のほうは、韴霊剱と物部氏の縁が希薄だ。

神武紀戊午年の六月には、武甕槌が韴霊剱を使い国を平らげたと記す。一方で神代下第九段(国譲り)本伝は、武甕槌がひどく憤って自薦するので経津主に配したと記す。神代下では経津主が主で武甕槌が従だが、神武紀は逆になる。

武甕槌は藤原氏が贔屓にした神であり、藤原氏の源流は中臣氏だ。
物部氏と中臣氏は韴霊剱の所有権をめぐって対立した可能性がある。そして出雲国風土記は経津主に言及するが、武甕槌については記さないことから、出雲国物部氏側と見受けられる。出雲大社(杵築大社)と物部氏は意志を共有していたのだろう。

中臣氏は藤原氏の隆盛にあやかり朝廷祭祀の中核を担うようになったというが、出雲大社が権力に迎合した様子はない。記紀神話にも迎合せず、熊野大社が祀る素戔嗚(櫛御気野)は伊射那伎の日真名子(愛兒)であると、出雲国造神賀詞に謳っている。

出雲国一宮熊野大社の素戔嗚は追放された素戔嗚ではないとする出雲国の見解は、越前素戔嗚と丹波大己貴の存在を肯定する。だから当ブログは出雲大社を批判しない。

今に至るまで数えきれないほど自説変更を繰り返したなかで、批判的な目で出雲大社を捉えていた時期もあったが、無知ゆえの間違いだった。出雲大社(杵築大社)は圧力に屈せず、伝承を曲げず、粛々と古代日本の姿を伝えてくれている。そんな出雲大社の有りようを知った今は、尊敬と感謝の思いでいる。

景行と成務と仲哀について仮説

景行[12]と仲哀[14]は九州へ赴き、熊襲を討伐している。
うろ覚えなのだが、この頃の力関係は筑紫(北九州勢)のほうが上だった説を、何時だったか誰かに解説してもらった気がする。

景行は自身が筑紫入りするまえに使者を送って様子をみる。神夏磯媛は賢木に剱と鏡と瓊を掛けて使者を迎える。
仲哀が筑紫に幸したときは、熊鰐が船の舳にたてた賢木に鏡と剱と瓊を掛けて出迎える。

この説では、景行と仲哀が筑紫に恭順したことを、剱・鏡・瓊の神器を暗喩に使って表しているという。皇統の正当性を謳うための歴史書に、天皇が人間に頭を下げたとは書けないから、神器を崇めたことにした。

さらに伊睹(イト)国の五十迹手は賢木に掛けた瓊と鏡と剱を仲哀に献じる。
これは「下賜」だという。神器を授けるので日々これを崇め奉りなさいと言って与えたものを、たった一文字「授」を「献」に差し換えて、五十迹手と仲哀の立場を逆転させた。

熊鰐が仲哀に魚塩の地を献じているのも、実態は「下賜」だという。
都近くに土地を与えるから其処に邸を構えて、以後朝貢するときはその邸に滞在しなさいと、遠来の新参者を思いやった。これも一文字「授」を「献」に差し換えて、立場を逆転させた。

仲哀は梶取の伊賀彦に、筑紫の神である大倉主と菟夫羅媛を祀らせる。
大倉主と菟夫羅媛の正体は、神託により筑紫を統治する首長と巫女であり、仲哀はここで筑紫勢に恭順を示したという。神が船の進行を妨げたという理由は、其処にいる貴人に挨拶しなければならなかったことを表している。

景行に話を戻して神夏磯媛。
多くの徒衆を従えた一国の魁帥なので、景行のころの筑紫女王と考えられる。謁見した景行の使者に、戦意を向けなければ我々も攻撃しないと約束したうえで、皇命に従わない残賊の討伐を景行の使者に願う。

ふつうに読めば「皇命」は景行の命令だが、北九州勢の場合、中華の皇帝を指している可能性も考えられる。中華より国王と認められた我(神夏磯媛)に従わない賊を討てと、景行に命じた。

因みに、それなら中華が王と認める筑紫が邪馬台国かと考えがちだが。
当時「漢委奴国王」の称号が権威を失っていた確証はないので、断定には至らないだろう。曹丕献帝から禅譲を受け、後漢を継承した建前になっている魏は、後漢が下賜した印璽の権威を安易に否定しないはずだ。

話を戻して。
景行と仲哀が筑紫に朝貢したのに、成務が朝貢しなかったのは母が八坂入姫だからと推測する。

八坂入姫の父は八坂入彦、その母は尾張大海媛であり、高倉下の系譜だ。穂高見・椎根津彦・高倉下は、志賀島阿曇氏と同じく綿津見を始祖にする。
崇神が実在しない説に則れば、母方の祖父は綏靖(神渟名川耳)になり、椎根津彦の系譜にもなる。成務は両親ともに筑紫と旧縁の血筋だから、朝貢する必要がなかったのだろう。

景行紀 十二年 九月 神夏磯媛
爰 有女人 曰神夏磯媛 其徒衆甚多 一國之魁帥也 聆天皇之使者至 則拔磯津山之賢木 以上枝挂八握劒 中枝挂八咫鏡 下枝挂八尺瓊 亦 素幡樹于船舳 參向 而 啓之曰 願無下兵我之屬類 必不有違者 今 將歸德矣 唯 有殘賊者 一曰鼻垂 妄假名號 山谷響聚 屯結於菟狹川上 二曰耳垂 殘賊貧婪 屢略人民 是居於御木 木 此云開 川上 三曰麻剥 潛聚徒黨 居於高羽川上 四曰土折猪折 隱住於緑野川上 獨恃山川之險 以多掠人民 是四人也 其所據幷要害之地 故 各領眷屬 爲一處之長也 皆曰 不從皇命 願急擊之 勿失

爰に 女人有り 曰く神夏磯媛 其の徒衆は甚だ多い 一国の魁帥(かいすい)也 天皇の使者が至るを聆(き)く 則ち磯津山の賢木を抜く 以て上枝に八握剱を挂(か)ける 中枝に八咫鏡を挂ける 下枝に八尺瓊を挂ける 亦 素幡(しらはた)を船の舳(へさき)に樹(た)てる 参り向く 而 之を啓(もう)し曰く 兵を我の属類(トモガラ)に下すこと無きを願う 必ず違う者有らず 今 将に徳に帰る矣 唯 残賊(ざんぞく、危害を与える人)の者有り 一は曰く鼻垂 妄(みだ)りに名號(みょうごう)を仮りる 山谷に響き聚める 菟狭川上に結び屯する 二は曰く耳垂 残賊は貧しく婪(むさぼ)る 属(ぞく、家来)は人民を略(カス)める 是は御木に居る 木 此れ云う開 川上 三は曰く麻剥 徒党を聚め潜む 高羽川上に居る 四は曰く土折猪折 緑野川上に隠れ住む 独り山川の険に恃(たの)む 以て多く人民を掠める 是の四人也 其の拠る所は幷(なら)べて要害の地 故 各が眷属を領する 一処の長と為る也 皆が曰く 皇命に従わず 之を急撃するを願う 失う勿れ

仲哀紀 八年春正月 熊鰐
岡縣主祖熊鰐 聞天皇之車駕 豫拔取五百枝賢木 以立九尋船之舳 而 上枝掛白銅鏡 中枝掛十握劒 下枝掛八尺瓊 參迎于周芳沙麼之浦 而 獻魚鹽地

岡縣主祖の熊鰐 天皇の車駕(しゃが、行幸の車)を聞く 予め五百枝賢木を抜き取る 以て九尋船の舳(へさき)に立てる 而 上枝に白銅鏡を掛け 中枝に十握剱を掛け 下枝に八尺瓊を掛ける 周芳の沙麼之浦に参り迎える 而 魚塩の地を献じる

―― 略 ――

到水門 御船不得進 則問熊鰐曰 朕聞 汝 熊鰐者有明心以參來 何船不進 熊鰐奏之曰 御船 所以不得進者 非臣罪 是 浦口有男女二神 男神曰大倉主 女神曰菟夫羅媛 必是神之心歟 天皇 則禱祈之 以挾杪者倭國菟田人伊賀彥 爲祝令祭 則船得進

水門に到る 御船は進み得ず 則ち熊鰐に問い曰く 朕は聞く 汝 熊鰐は明心(あかきこころ、赤心)有り 以て参り来る 何ぞ船の進まず 熊鰐は之を奏し曰く 御船 進むを得ぬ所以は 臣の罪に非ず 是 浦口に男女二神有り 男神は曰く大倉主 女神は曰く菟夫羅媛 必ず是神の心歟 天皇 則ち祷祈(いの)る之 挟杪(かじとり、梶取、船頭)者の倭国菟田人の伊賀彦を以て 祝と為し祭ら令める 則ち船は進み得る

仲哀紀 八年春正月 五十迹手
又 筑紫伊覩縣主祖五十迹手 聞天皇之行 拔取五百枝賢木 立于船之舳艫 上枝掛八尺瓊 中枝掛白銅鏡 下枝掛十握劒 參迎于穴門引嶋 而 獻之 因以 奏言 臣 敢所以獻是物者 天皇 如八尺瓊之勾 以曲妙御宇 且如白銅鏡以分明看行山川海原 乃提是十握劒 平天下矣

又 筑紫伊睹縣主祖の五十迹手 天皇の行くを聞く 五百枝賢木を抜き取る 船の舳艫(じくろ、船首と船尾)に立てる 上枝に八尺瓊を掛け 中枝に白銅鏡を掛け 下枝に十握剱を掛け 穴門引嶋に迎え参る 而 之を献じる 因以 奏し言う 臣 敢えて是物を献じる所以は 天皇 八尺瓊之勾の如く 以て曲妙(タエニ)御宇(ミヨシロシメセ) 且つ白銅鏡の如く 以て分明(ふんめい)山川海原を看て行く 乃ち是十握剱を提(さ)げ 天下を平げる矣

仮説――当ブログでは「妄想のなかで貫かれる理屈」と定義して、表題に仮説と謳うこの記事などは眉に唾して読むことを推奨する。

襲津彦についての仮説

襲津彦には葛城の他にも一人、景行[12]皇子の日向襲津彦がいる。
母は日向髪長大田根。日向国の益安神社に祀られている。

景行[12]紀
次妃日向髮長大田根 生日向襲津彥皇子 是阿牟君之始祖也

次妃の日向髪長大田根 生む日向襲津彦皇子 是は阿牟君の始祖也

景行紀は、日向襲津彦が阿牟君の祖であると記す。
阿牟君を阿武国造(山口県萩市/阿武郡、長門国東部)と同一視できるだろうか?
阿武国造は景行のころ任命された神魂の後裔だ。

カミムスビ(神魂・神皇産霊)を祖とする国造を以下に列記する。
これらの国々に関連性を見出すのは難しく、神皇産霊の正体はわからない。

紀伊/神武[1]、吉備中縣・石見/崇神[10]、阿武/景行[12]、天草・葛津立/成務[13]、大伯・久味/応神[15]、淡道/仁徳[16]

先代旧事本紀巻十 国造本紀 神魂(カミムスビ
大伯国造
軽島豊明朝御世 神魂命 七世孫佐紀足尼 定賜国造
吉備中縣国造
瑞籬朝御世 神魂命 十世孫明石彦 定賜国造
阿武国造
纏向日代朝御世 神魂命 十世孫味波波命 定賜国造
久味国造
軽島豊明朝 神魂尊 十三世孫伊興主命 定賜国造
天草国造
志賀高穴穂朝御世 神魂命 十三世孫建島松命 定賜国造
先代旧事本紀巻十 国造本紀 神皇産霊(カミムスビ
紀伊国造
橿原朝御世 神皇産霊命 五世孫天道根命 定賜国造
淡道国造
難波立津朝御世 神皇産霊尊 九世孫矢口足尼 定賜国造
石見国
瑞籬朝(崇神)御世 紀伊国造同祖蔭佐奈朝命 兒大屋古命 定賜国造
葛津立国造
志賀高穴穂朝御世 紀直同祖大名草彦命 兒若彦命 定賜国造

もし日向襲津彦の後裔が葛城襲津彦ならば――
葛城襲津彦の事績は百済新羅に関係するものが多い。
阿武国(長門国東部)は、葛城襲津彦の足場として魅力的な立地のように思う。

阿武国造である神魂十世孫の味波波命。
これは、景行皇子・日向襲津彦の御母(ミハハ)だったりしないだろうか?

因みに葛城襲津彦の後裔としては穂国造(三河国の一部)が明記されている。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
穂国造
泊瀬朝倉朝(雄略) 以生江臣祖葛城襲津彦命 四世孫菟上足尼 定賜国造

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