天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第二章 ヤマト建国前夜の畿内

前回の要点:
誓約で生まれた三女神は、宇佐と対馬をむすぶ交易路を司る。
素戔嗚は、狗邪韓国を象徴する。

瀬戸内航路

三女神が宇佐と対馬をむすぶ交易路ならば、同時に生まれた五男神もそれに類する存在だろうと予測すると、まず瀬戸内海が思い当たる。

2004年(平成16年)台風23号により淡路島は被災した。その後の普及事業において埋蔵文化財の調査が行われ、五斗長垣内遺跡にて2世紀頃と目される鍛冶の痕跡が確認された。

製鉄云々に関しては賢い学者先生による科学的結論を待つとして。
淡路島と宇佐をむすぶ瀬戸内航路が、弥生後期には既に開かれていたことは間違いないだろう。

日本海対馬海流(1~1.5ノット)、太平洋の黒潮(2~3ノット)は原則として西から東へ流れるが、潮汐の影響が大きい瀬戸内はおよそ6時間余りで潮流の向きが切り替わるため、時間帯を選べば東から西へも海に押されて航行できる。

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大潮の潮流(ピーク時)

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小潮の潮流(ピーク時)

弥生後期と目される鍛冶の痕跡は吉備でも確認されている。
朝鮮由来の鉄ていが窪木薬師遺跡などから出土しており、たたら製鉄の可能性を否定するわけではないが、弥生後期には朝鮮半島から原料を輸入して加工するシステムだったと思われる。

北九州の天照と狗邪韓国の素戔嗚が、対馬宇佐間の三女神と瀬戸内の五男神を生む誓約のエピソードは、これらの交易路を示す比喩だろう。

淡路勢の神武

神武紀では、神武が椎根津彦の案内で瀬戸内海を東へ行く話として、鍛冶技術が瀬戸内に伝播したことを描く。

椎根津彦は、久比岐の海人族である青海氏の祖だ。
北九州勢が淡路島へ進出した目的が、高志の玉石にあることを示す比喩だろう。

饒速日勢の神武

神武の事績は、北九州から淡路に入植した淡路勢と、日向から伊勢に入植した饒速日勢を足して創作されたと考える。

内訳は先に述べたように、
椎根津彦の案内で瀬戸内を東へ進んだ神武は淡路勢。
紀伊半島南部へ回り込んで高倉下と交流を持ち、伊勢に入植した神武は饒速日勢。
椎根津彦と共闘して国見岳八十梟帥と兄磯城を討った神武は淡路勢。

饒速日勢が神武であるとき、椎根津彦は登場しない。
代わりのように、少しだけ高倉下が登場する。
高倉下は、綿津見を初代に据えた尾張氏系図では、椎根津彦の従兄弟だ。

神武[1]紀戊午年 夏 六月乙未朔丁巳
至熊野荒坂津 亦名丹敷浦 因誅丹敷戸畔者 時 神吐毒氣 人物咸瘁 由是 皇軍不能復振 時 彼處有人 号曰熊野高倉下 忽夜夢 天照大神謂武甕雷神曰 夫葦原中國猶聞喧擾之響焉

熊野荒坂津に至る 亦の名を丹敷浦 因て丹敷戸畔なる者を誅する 時 神が毒気を吐く 人も物も咸(あまね)く瘁(やつ)れる 由是 皇軍も復た振るうに能わず 時 彼の処に人有り 号は曰く熊野高倉下 忽ち夜の夢にて 天照大神は武甕雷神に謂い曰く 夫れ葦原中国に猶も喧擾(騒がしい)の響きを聞く焉

――中略――

武甕雷神 登謂高倉下曰 予劒 号曰韴靈 韴靈 此云赴屠能瀰哆磨 今 當置汝庫裏 宜取而獻之天孫 高倉下曰 唯々 而 寤之明旦 依夢中教 開庫視之 果有落劒倒立於庫底板 即取以進之 于時 天皇適寐 忽然 而 寤之曰 予何長眠若此乎 尋 而 中毒士卒悉復醒起

武甕雷神 登(スナワチ)高倉下に謂い曰く 予の剱 号は曰く韴霊 韴霊 此れ云う赴屠能瀰哆磨 今 当に汝の庫裏に置かん 取りて之を天孫に献ずるが宜しい 高倉下は曰く 唯々 而 之の明旦(みょうたん、明朝)に寤(さ)める 夢の中の教えに依り 庫を開け之を視る 果たして落ちた剱は庫の底板に倒立して有り 即ち取り以て之を進む 于時 天皇は適(ヨク)寐(ね)る 忽然 而 寤(さ)め之を曰く 予は何ぞ此の若く長く眠る乎 尋ねる 而 中毒の士卒は悉く復た醒め起きる

このとき高倉下が神武に渡した韴霊剱を、のちに物部氏石上神宮に祀る。
韴霊剱がいつ物部氏の所有になったのかという疑問は、このときの神武が饒速日勢であれば解決する。饒速日の子である宇摩志麻遅は、物部氏の祖だ。

神武はこのあと、八咫烏の導きで熊野山地を抜け、菟田(宇陀)の魁帥である兄猾を討ったのち、みずから吉野を巡幸した。
巡幸は、物語がここで一段落したことを意味すると考える。

続く国見岳八十梟帥討伐の神武は再び淡路勢になるが、おそらく饒速日の伊勢入植から数世代分の年数が経過しているだろう。そうでなければ、今も畿内に窺える饒速日勢の影響の濃さに説明がつかない。

尾張には高倉下の傍流である尾張氏が居て、伊勢にはおそらく饒速日勢が居た。

Wikipedia 伊勢津彦 :2021年6月転写
同説ではその他別名(櫛玉命)や世代関係(神武一世代前)など諸要素からも伊勢津彦神こそ邇芸速日命と同神とされ、東国へ逃亡したのは実際は伊勢津彦神の子に当たる神狭命とされる。

伊勢の太陽信仰は、もともとは饒速日を祀っていたのではなかろうか。
三輪山も然り。

冬至の日の出は真東から南へ約30度、夏至の日の出は北へ約30度ずれる。
三輪山山頂から30度ずれた線を地図に引いてみると、冬至には唐子・鍵遺跡が線と重なり、夏至には大神神社拝殿と神武天皇陵が線と重なる。

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三輪山山頂と冬至夏至

記紀は、三輪山の祭神を大物主と記すが、大物主に太陽神のイメージはない。
かつて祭神は饒速日だったのでは? 祭神を大物主に挿げ替えても、祭祀のありようは饒速日の頃のままなのではなかろうか。

神代上第八段 八岐大蛇 一書第六
于時 神光照海 忽然有浮來者 曰 如吾不在者 汝 何能平此國乎 由吾在故 汝 得建其大造之績矣 是時 大己貴神問曰 然則汝 是誰耶 對曰 吾是 汝之幸魂奇魂也 大己貴神曰 唯然 廼知汝是 吾之幸魂奇魂 今 欲何處住耶 對曰 吾欲住於日本國之三諸山 故 即營宮彼處 使就而居 此大三輪之神也

于時 神光が海を照らす 忽然と浮き来る者有り 曰く もし吾が在らずは 汝 何ぞ能く此国を平らぐ乎 由(理由)は吾が在る故(ゆえ) 汝 其の大造の績を建て得る矣 是時 大己貴神は問い曰く 然らば則ち汝 是は誰耶 対し曰く 吾は是 汝の幸魂奇魂也 大己貴神は曰く 唯然り 廼(すなわ)ち汝は是と知る 吾の幸魂奇魂 今 何処に住むを欲する耶 対し曰く 吾は日本国の三諸山に住むを欲する 故 即ち彼の処に宮を営む 就いて居(お)ら使む 此は大三輪の神也

高倉下後裔 尾張氏

先述したように尾張氏には、綿津見を初代とする系図がある。
しかし日本書紀の神代下第一段(国譲りと天孫降臨)一書第六は、天忍穂耳と𣑥幡千千姫の子である天火明の子、天香山を尾張氏の祖と記す。一書第八も、天照国照彦火明命を尾張氏の遠祖と記す。

先代旧事本紀巻第五の天孫本紀は、天火明と饒速日を同一視して、高天原にいた頃の妃である天道日女とのあいだの子を天香山、天降って妃にした御炊屋姫とのあいだの子を宇摩志麻遅とする。

一般には綿津見を初代とする系図が正しいとして、尾張氏は海人族とされる。

先代旧事本紀の記述は、ヤマト建国前夜とも云えるこの時代、饒速日を祀る畿内において、尾張氏物部氏の祖先が幅を利かせていたことを表しているのではなかろうか。

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Wikipedia尾張氏」より抜粋・転写
神代下第一段 国譲りと天孫降臨 一書第六
天忍穗根尊 娶高皇産靈尊女子𣑥幡千千姬萬幡姬命 亦云高皇産靈尊兒火之戸幡姬兒千千姬命 而 生兒天火明命 次生天津彥根火瓊瓊杵根尊 其天火明命兒天香山 是尾張連等遠祖也

天忍穂根尊 高皇産霊尊の娘子の𣑥幡千千姫萬幡姫命を娶る 亦た云う高皇産霊尊の兒の火之戸幡姫の兒の千千姫命 而 生む兒は天火明命 次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む 其の天火明命の兒は天香山 是は尾張連等の遠祖也

神代下第一段 国譲りと天孫降臨 一書第八
一書曰 正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊 娶高皇産靈尊之女天萬𣑥幡千幡姬 爲妃而生兒 號天照國照彥火明命 是尾張連等遠祖也

一書に曰く 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 高皇産霊尊の娘の天萬𣑥幡千幡姫を娶る 妃と為して生む兒 號は天照国照彦火明命 是は尾張連等の遠祖也

先代旧事本紀巻第五 天孫本紀
照國照彥火明櫛玉饒速日尊 天道日女命爲妃 天上誕生天香語山命 御炊屋姫命爲妃 天降誕生宇摩志麻治命

天照国照彦火明櫛玉饒速日尊 天道日女命を妃と為す 天上に誕生するは天香語山命 御炊屋姫命を妃と為す 天降り誕生するは宇摩志麻治命

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先代旧事本紀天孫本紀 饒速日から八世孫倭得玉彦まで系図おこし

建国神話第一章 素戔嗚と三女神

第五段(神産み)では、さまざまな神と三貴子(天照、月読、素戔嗚)が誕生する。三貴子は、本伝と一書第二では伊弉諾伊弉冉の両親から、一書第一と第六(黄泉戸喫)では伊弉諾の片親から生まれるが、どちらにせよ素戔嗚は乱暴な気性ゆえに、親により根国へ追放される。

続く第六段(誓約)では、根国へ行く前に姉に会おうと考えた素戔嗚が、高天原を訪ねる。高天原を奪いに来たのではと疑う天照と、悪意はないと主張する素戔嗚が誓約した結果、三女神と五男神(一書第三は六男神)が生まれ、素戔嗚の主張が通る。

誓約で生まれた三女神

現代の宗像大社は、沖ノ島にある沖津宮に田心姫、大島にある中津宮に湍津姫、九州本土にある辺津宮に市杵嶋姫を祀る。
多紀理毘売の別名を奧津嶋(オキツシマ)比売とする古事記の記述は現状に適う。

古事記 巻上
於吹棄氣吹之狹霧所成神 御名 多紀理毘賣命 此神名以音 亦御名 謂奧津嶋比賣命 次市寸嶋比賣命 亦御名 謂狹依毘賣命 次多岐都比賣命 三柱 此神名以音

吹き棄てる気吹の狭霧が成る所の神 御名 多紀理毘売命 此神は音を以って名づく 亦の御名 奧津嶋比売命と謂う 次に市寸嶋比売命 亦の御名 狭依毘売命と謂う 次に多岐都比売命 三柱 此神は音を以って名づく

日本書紀が記す三女神は、生まれた順に並べて
本伝は、田心姫・湍津姫・市杵嶋姫
一書第一は、瀛津嶋姫・湍津姫・田心姫
一書第二は、市杵嶋姫・田心姫・湍津姫
一書第三は、瀛津嶋姫亦名市杵嶋姫・湍津姫・田霧姫
である。文献は、瀛津嶋に「ヲキツシマ」とフリガナを振る。

古事記は「タギリヒメ=オキツシマヒメ(奧津嶋比売)」で、
日本書紀は「イチキシマヒメ=ヲキツシマヒメ(瀛津嶋姫)」だ。
まぎらわしいが、よくみれば「オ」と「ヲ」なので音が違う。

「瀛」の字義は「大海や沢池沼」で、海洋から陸の水場まで幅広くカバーする。
また一書第二は、遠い瀛に市杵嶋姫が居て、中瀛に田心姫が居ると記す。九州本土が遠く、沖ノ島が中だから、これは対馬側から見た位置関係だろう。

神代上第六段 誓約 一書第二
囓斷瓊端 而 吹出氣噴之中化生神 號市杵嶋姬命 是居于遠瀛者也 又 囓斷瓊中 而 吹出氣噴之中化生神 號田心姬命 是居于中瀛者也 又 囓斷瓊尾 而 吹出氣噴之中化生神 號湍津姬命 是居于海濱者也 凡三女神

瓊の端を齧り断つ 而 吹き出す気噴の中に化生する神 號は市杵嶋姫命 是は遠い瀛(海や沢池沼)に居る者也 又 瓊の中を齧り断つ 而 吹き出す気噴の中に化生する神 號は田心姫命 是は中瀛に居る者也 又 瓊の尾を齧り断つ 而 吹き出す気噴の中に化生する神 號は湍津姫命 是は海濱(浜)に居る者也 凡(すべ)て三女神

一書第三は、筑紫の水沼君らが三女神を祀ったと記す。これは、宇佐神宮の南方10km弱のところにある三女神社のことらしい。
今在海北道中とあるので、宗像三女神と同一神である。

神代上第六段 誓約 一書第三
卽以日神所生三女神者 使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣 今在海北道中 號曰道主貴 此筑紫水沼君等祭神 是也

即ち日神を以て生す所の三女神は 葦原中国の宇佐嶋に隆(たか)く居(お)ら使む矣 今は海北道の中に在る 號は曰く道主貴 此は筑紫の水沼君等が祭る神 是也

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誓約の三女神

以上のことから、誓約の三女神は宇佐と対馬をむすぶ交易路を司ると考える。

誓約の素戔嗚

朝鮮半島の南部は倭国の土地であると、魏志韓伝は記す。
そして魏志倭人伝は、海岸に沿う航路で韓国を経て狗邪韓国に到り、海を渡って対海国に到ると記す。
よって朝鮮半島南部にある倭の土地が「狗邪韓国」であると解釈できる。

魏志韓伝
韓 在帯方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里 有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓

韓 帯方の南に在り 東西は海を以って限りを為す 南は倭と接する 方可四千里(四千里四方) 三種有り 一は曰く馬韓 二は曰く辰韓 三は曰く弁韓

魏志倭人伝
從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里 始度一海 千餘里 至對馬國

郡より倭へ至る 海岸に循(したが)い水行 韓国を歴(へ)る 乍南乍東 其(倭)の北岸に到る 狗邪韓国 七千余里 始め一海を度(渡)る 千余里 対海国に至る

対馬と宇佐をむすぶ三女神の航路は、朝鮮半島との往来に利用されたと考える。

第六段(誓約)本伝では、三女神は素戔嗚の子になる。
また、第八段(八岐大蛇)一書第四は、高天原を追われた素戔嗚は新羅へ行ったが馴染まず、土の船で海を渡り出雲へ移ったと記す。

素戔嗚は朝鮮半島とつながりが深い。
そして伊弉諾を親に持つ三貴子の一人であることを考慮すれば、素戔嗚は朝鮮半島に存在した倭の勢力、狗邪韓国を象徴する存在と見做せるだろう。

神代上第六段 誓約 本伝
天照大神勅曰 原其物根 則八坂瓊之五百箇御統者 是吾物也 故 彼五男神 悉是吾兒 乃取而子養焉 又 勅曰 其十握劒者 是素戔嗚尊物也 故 此三女神 悉是爾兒 便授之素戔嗚尊 此則筑紫胸肩君等所祭神 是也

天照大神は勅し曰く 其の物の根ざす原 則ち八坂瓊之五百箇御統は 是は吾の物也 故 彼の五男神 悉く是は吾兒 乃ち取りて子養う焉 又 勅し曰く 其の十握剱は 是は素戔嗚尊の物也 故 此の三女神 悉く是は爾(なんじ)の兒 便ち素戔嗚尊に之を授ける 此れ則ち筑紫の胸肩君等の祭る所の神 是也

神代上第八段 八岐大蛇 一書第四
諸神 科以千座置戸 而 遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地 吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在鳥上之峯

諸神 千座の置戸を以て科す 而 遂に之を逐う 是時 素戔嗚尊 其の子の五十猛神を帥(率)い 新羅国に降り到る 曾尸茂梨(ソシモリ)に居る之処 乃ちを興を言い曰く 此の地 吾は居るを欲さず 遂に埴土を以て舟を作る 之に乘り東へ渡る 出雲国簸川上に所在する鳥上の峯に到る

時代を下って5~6世紀、朝鮮半島南部に前方後円墳が築造される。下記の資料によると、2010年時点で13基が確認されている。
この頃の朝鮮半島南部の倭人勢力には伽耶加羅任那などの呼称がある。

562年(欽明[29])、伽耶新羅に滅ぼされる。
663年(天智[38])、大和は百済を支援して出兵した白村江の戦いにて新羅・唐に敗戦。これにより日本は、朝鮮半島の権益を完全に失ったと考えられている。

この敗戦後に「防人」が制度化される。
防人は東国から徴発された者が多く、主に壱岐対馬・筑紫など北九州沿岸地域へ送られて兵役を務めた。

九州の防衛線に東国人を動員した理由について、はるか昔から朝鮮半島で活動してきた九州勢の動きを警戒したためではないかと推測する。新羅・唐を呼び入れることを危惧したか、あるいは百済の残党と通じては唐から難癖をつけられる恐れがあると考えたか。防人の矛先は九州の外へも内へも向いていたのではなかろうか。

防人は730年(聖武[45])に廃止される。
720年に成立した日本書紀の編纂開始は、681年(天武[40]紀十年 三月庚午朔 丙戌)だ。つまり日本書紀が編纂されていた頃、大和朝廷朝鮮半島との交流を抑制する政策をとっていたと考えられる。

天武[40]紀十年 三月庚午朔 丙戌
丙戌 天皇御于大極殿 以詔 川嶋皇子 忍壁皇子 廣瀬王 竹田王 桑田王 三野王 大錦下上毛野君三千 小錦中忌部連首 小錦下阿曇連稻敷 難波連大形 大山上中臣連大嶋 大山下平群臣子首 令記定帝紀及上古諸事 大嶋 子首 親執筆 以錄焉

丙戌 天皇大極殿に御する 詔を以て 川嶋皇子 忍壁皇子 廣瀬王 竹田王 桑田王 三野王 大錦下上毛野君三千 小錦中忌部連首 小錦下阿曇連稻敷 難波連大形 大山上中臣連大嶋 大山下平群臣子首 帝紀及び上古の諸事を記し定め令める 大嶋 子首 親(みずか)ら筆を執る 以て録(しる)す焉

神代七世に属する神である伊弉諾によって素戔嗚が根国へ逐いやられるエピソードは、日本書紀編纂当時の国際情勢を反映して創作されたのではなかろうか。朝鮮半島を手放すのは、大和朝廷が奉祀する皇祖天照より上の意思が働いたからという理屈だ。

建国神話序章 自説の骨子

神代紀の誓約から国譲りまでは、倭国大乱を描いている。
神武[1]紀の東征は、倭国大乱のころの近畿地方中部地方を描いている。
崇神[10]紀には、神武東征の記述を改竄したような倭国大乱の記述がある。
これを読み解くにはコツが必要だ。

コツを押さえれば日本書紀は、ヤマト建国の立役者は淡路勢と久比岐勢であると読める。それを読めなくさせた要因は3つ。

(1) 久比岐(糸魚川)が翡翠の産地であることを忘れた。
(2) 淡路島に先進的な製鉄施設が存在したことを忘れた。
(3) 古事記の嘘に振り回された。

(1)は昭和初期、(2)は平成半ばに発見・認知されたため、もはや障壁たりえない。
残る問題は(3)のみ。

日本書紀に記された倭国大乱を読み解くには、古事記の記述を否定しなければならない。古事記を拠り所に古代史観を構築している方々には受け入れ難かろう。

また、国譲り神話だけを見て、大国主判官贔屓したくなる大衆心理もある。
しかし記紀成立から今日まで、大国主がマイノリティだったことはない。
現代の実状は、行き過ぎた大国主贔屓によって、久比岐は神を奪われている。

倭大國魂神を久比岐に返したい。
そう思って、筆者はこの文章をしたためている。

第一のコツ『神は地方勢力』

弥生時代終盤は、平野に住む集団が近隣同士で統合して大きな勢力を形成した。平和的に合併する場合もあれば、侵略戦争もあっただろう。神代紀の誓約から国譲りまでは、倭国大乱に関与した大勢力の動向を、神々の行動に置き換えた物語だ。

天照   ……北九州勢
素戔嗚  ……狗邪韓国勢、および越前勢
高皇産霊 ……淡路勢
饒速日  ……伊勢勢
長髄彦  ……紀伊

大国主  ……淡路・久比岐勢の対立勢力である首長たちの総称
八千矛  ……越前勢の首長
葦原醜男 ……畿内勢の首長
大己貴  ……丹波勢および山陰出雲勢の首長

奴奈川姫 ……久比岐勢の首長
椎根津彦 ……久比岐海人族の青海氏、畿内へ分家して倭氏
高倉下  ……越中東部の海人族、東海へ分家して尾張氏

二柱の大己貴が、丹波勢(丹波国一宮 出雲大神宮)と出雲勢(出雲国一宮 出雲大社:明治に杵築大社から改名)それぞれに存在した。ここでは前者を丹波大己貴、後者を杵築大己貴と呼んで区別する。

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日本書紀版ヤマト建国神話の主要勢力

第二のコツ『倭は二か所に跨る』

北九州、および翡翠産地である久比岐・科野・越中東部が倭国だ。
二つの倭国に挟まれて、大国主が治める葦原中国がある。

第三のコツ『出雲は神を盗む 大和は人を盗む』

味耜高彦根 ……大和磯城郡に由来する神
御穂須須美 ……能登珠洲岬に由来する神/須須神社
建御名方  ……久比岐勢の武人/諏訪大社

もし山陰の出雲国と関わりが深ければ山陰系土器が多く出土するはずだが、久比岐から出土する弥生後期の土器の傾向は、北陸系と信州系だ。御穂須須美と建御名方が杵築大己貴の子である可能性は低い。

吉備津彦 ……吉備勢/孝霊[7]の皇子
大彦   ……淡路勢/孝元[8]の皇子
倭迹迹日百襲姫 ……久比岐勢/孝霊[7]の皇女

吉備勢は、安芸勢と並ぶ山陽の雄であり、吉備津彦はその首長。
淡路勢は、北九州から淡路島に入植した集団であり、大彦はその首長。
久比岐勢は、翡翠産地の在地勢力で、倭迹迹日百襲姫は奴奈川姫のこと。

記紀は、各地の首長を皇統に取り込むことで、太古の昔から畿内が周辺地域に対して強い先導力を行使していたように見せかけたのではなかろうか。

第四のコツ『地名由来譚を鵜呑みにしない』

號彼地曰竹屋 ……国譲りと天孫降臨 一書第三
因改号其津曰盾津 ……神武紀 東征 夏四月丙申朔甲辰
号其山曰那羅山 ……崇神紀 十年 九月丙戌朔 壬子

上記のような、エピソードと地名を関連づける一文を重視しない。

地名は日本書紀編纂後に、日本書紀の記述に沿って変えられた可能性がある。極端な例では、福井県に「高浜町事代」が存在するが、調べてみるとこの地名は近代の命名らしく、事代主との関連を示す証拠ではないようだ。

地名由来譚のすべてを虚構と断ずるわけではない。しかし、高志および若狭湾周辺にはヤマト建国に関わる伝承があり、これらは先代旧事本紀巻第十の国造本紀などとも整合性がとれている。

大和は、随所に差し挟まれた地名を畿内各地に命名することで、太古の昔からヤマトの中心が畿内に在ったように見せかけたのではなかろうか。

第五のコツ『神武は淡路勢と饒速日勢の合成キャラ』

国見岳での祭祀が、饒速日勢から淡路勢への切り換え点になる。
祭祀に際して神武は道臣に今 以高皇産靈尊 朕親作顯齋と言う。顕斎(うつしいわい)とは神に見立てる人間のことで、神武はこのとき自分を高皇産霊に見立てた。これは神武の中身が淡路勢(高皇産霊)に替わったと解釈する。

国見岳以降の神武は淡路勢であり、個人としては概ね大彦が該当する。

国見岳より前、難波到達からの神武は饒速日勢であり、九州から伊勢に入植して、高倉下(尾張氏)と交流をもった。高倉下は越中東部・飛騨高山・尾張を活動域にしていた海人族と思われる。

それより前、椎根津彦(久比岐勢)を水先案内にして筑紫を出立した神武は淡路勢だ。このエピソードは、北九州から淡路島へ進出した目的が、久比岐が産出する翡翠であることを示す比喩だろう。

第六のコツ『平定は制圧と解釈する』

戦後の大国主贔屓の根底には、大和に屈服させられた可哀そうな出雲、という論調が存在するようだ。昭和末頃には、大国主は広大な地域を支配した大王であり、各地の有力氏族の娘との婚姻により平和的に勢力を拡大した、などとテレビや出版物が広めたこともある。

だが常識的に考えて男女比はおよそ1対1。外へ妻問いに出る男もいれば、外から妻問いを受ける女もいたはずだ。もし大国主一族の女が外部の男を夫にしなかったのなら、何世代も近親婚を繰り返したか、自分より身分の低い男を夫にしたことになる。前者は遺伝的に問題があり、後者は王族の価値を下げる恐れがある。

首長氏族の妻問いはお互い様であり、これにより上下関係が生じることはないだろう。つまり、婚姻は支配地域の拡大につながらない。勢力間に序列が生じる原因は戦争、または技術や物資など利益の授与が一般的だろう。

弥生時代は、大陸文化を取り入れやすい西側のほうが文化レベルが高い。
そして弥生中期にはすでに高志の玉石が北九州で利用されていることから、高志には西の先進文化を自力で取り入れるポテンシャルがあったと考える。

ましてや高志の東端にある久比岐と越中東部は翡翠の産地であり、遺跡出土品から深い交流が認められる科野には、志賀島阿曇氏の祖である宇都志日金拆と同一視される穂高見を祀る穂高神社がある。
大国主から利益を与えられて有難がる理由など無い。

もしも大国主が広大な地域を支配したとするなら、それは武力で他勢力を従えた結果だろう。可哀そうな平和主義の巨大勢力・出雲など存在しえない。

政治思想を挟みたくはないが、戦後日本では非現実的な平和主義ほど声が大きく、そのなかで大国主が贔屓されてきた実状に留意する必要があると思う。