天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第二章 ヤマト建国前夜の畿内

前回の要点:
誓約で生まれた三女神は、宇佐と対馬をむすぶ交易路を司る。
素戔嗚は、狗邪韓国を象徴する。

瀬戸内航路

三女神が宇佐と対馬をむすぶ交易路ならば、同時に生まれた五男神もそれに類する存在だろうと予測すると、まず瀬戸内海が思い当たる。

2004年(平成16年)台風23号により淡路島は被災した。その後の普及事業において埋蔵文化財の調査が行われ、五斗長垣内遺跡にて2世紀頃と目される鍛冶の痕跡が確認された。

製鉄云々に関しては賢い学者先生による科学的結論を待つとして。
淡路島と宇佐をむすぶ瀬戸内航路が、弥生後期には既に開かれていたことは間違いないだろう。

日本海対馬海流(1~1.5ノット)、太平洋の黒潮(2~3ノット)は原則として西から東へ流れるが、潮汐の影響が大きい瀬戸内はおよそ6時間余りで潮流の向きが切り替わるため、時間帯を選べば東から西へも海に押されて航行できる。

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大潮の潮流(ピーク時)

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小潮の潮流(ピーク時)

弥生後期と目される鍛冶の痕跡は吉備でも確認されている。
朝鮮由来の鉄ていが窪木薬師遺跡などから出土しており、たたら製鉄の可能性を否定するわけではないが、弥生後期には朝鮮半島から原料を輸入して加工するシステムだったと思われる。

北九州の天照と狗邪韓国の素戔嗚が、対馬宇佐間の三女神と瀬戸内の五男神を生む誓約のエピソードは、これらの交易路を示す比喩だろう。

淡路勢の神武

神武紀では、神武が椎根津彦の案内で瀬戸内海を東へ行く話として、鍛冶技術が瀬戸内に伝播したことを描く。

椎根津彦は、久比岐の海人族である青海氏の祖だ。
北九州勢が淡路島へ進出した目的が、高志の玉石にあることを示す比喩だろう。

饒速日勢の神武

神武の事績は、北九州から淡路に入植した淡路勢と、日向から伊勢に入植した饒速日勢を足して創作されたと考える。

内訳は先に述べたように、
椎根津彦の案内で瀬戸内を東へ進んだ神武は淡路勢。
紀伊半島南部へ回り込んで高倉下と交流を持ち、伊勢に入植した神武は饒速日勢。
椎根津彦と共闘して国見岳八十梟帥と兄磯城を討った神武は淡路勢。

饒速日勢が神武であるとき、椎根津彦は登場しない。
代わりのように、少しだけ高倉下が登場する。
高倉下は、綿津見を初代に据えた尾張氏系図では、椎根津彦の従兄弟だ。

神武[1]紀戊午年 夏 六月乙未朔丁巳
至熊野荒坂津 亦名丹敷浦 因誅丹敷戸畔者 時 神吐毒氣 人物咸瘁 由是 皇軍不能復振 時 彼處有人 号曰熊野高倉下 忽夜夢 天照大神謂武甕雷神曰 夫葦原中國猶聞喧擾之響焉

熊野荒坂津に至る 亦の名を丹敷浦 因て丹敷戸畔なる者を誅する 時 神が毒気を吐く 人も物も咸(あまね)く瘁(やつ)れる 由是 皇軍も復た振るうに能わず 時 彼の処に人有り 号は曰く熊野高倉下 忽ち夜の夢にて 天照大神は武甕雷神に謂い曰く 夫れ葦原中国に猶も喧擾(騒がしい)の響きを聞く焉

――中略――

武甕雷神 登謂高倉下曰 予劒 号曰韴靈 韴靈 此云赴屠能瀰哆磨 今 當置汝庫裏 宜取而獻之天孫 高倉下曰 唯々 而 寤之明旦 依夢中教 開庫視之 果有落劒倒立於庫底板 即取以進之 于時 天皇適寐 忽然 而 寤之曰 予何長眠若此乎 尋 而 中毒士卒悉復醒起

武甕雷神 登(スナワチ)高倉下に謂い曰く 予の剱 号は曰く韴霊 韴霊 此れ云う赴屠能瀰哆磨 今 当に汝の庫裏に置かん 取りて之を天孫に献ずるが宜しい 高倉下は曰く 唯々 而 之の明旦(みょうたん、明朝)に寤(さ)める 夢の中の教えに依り 庫を開け之を視る 果たして落ちた剱は庫の底板に倒立して有り 即ち取り以て之を進む 于時 天皇は適(ヨク)寐(ね)る 忽然 而 寤(さ)め之を曰く 予は何ぞ此の若く長く眠る乎 尋ねる 而 中毒の士卒は悉く復た醒め起きる

このとき高倉下が神武に渡した韴霊剱を、のちに物部氏石上神宮に祀る。
韴霊剱がいつ物部氏の所有になったのかという疑問は、このときの神武が饒速日勢であれば解決する。饒速日の子である宇摩志麻遅は、物部氏の祖だ。

神武はこのあと、八咫烏の導きで熊野山地を抜け、菟田(宇陀)の魁帥である兄猾を討ったのち、みずから吉野を巡幸した。
巡幸は、物語がここで一段落したことを意味すると考える。

続く国見岳八十梟帥討伐の神武は再び淡路勢になるが、おそらく饒速日の伊勢入植から数世代分の年数が経過しているだろう。そうでなければ、今も畿内に窺える饒速日勢の影響の濃さに説明がつかない。

尾張には高倉下の傍流である尾張氏が居て、伊勢にはおそらく饒速日勢が居た。

Wikipedia 伊勢津彦 :2021年6月転写
同説ではその他別名(櫛玉命)や世代関係(神武一世代前)など諸要素からも伊勢津彦神こそ邇芸速日命と同神とされ、東国へ逃亡したのは実際は伊勢津彦神の子に当たる神狭命とされる。

伊勢の太陽信仰は、もともとは饒速日を祀っていたのではなかろうか。
三輪山も然り。

冬至の日の出は真東から南へ約30度、夏至の日の出は北へ約30度ずれる。
三輪山山頂から30度ずれた線を地図に引いてみると、冬至には唐子・鍵遺跡が線と重なり、夏至には大神神社拝殿と神武天皇陵が線と重なる。

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三輪山山頂と冬至夏至

記紀は、三輪山の祭神を大物主と記すが、大物主に太陽神のイメージはない。
かつて祭神は饒速日だったのでは? 祭神を大物主に挿げ替えても、祭祀のありようは饒速日の頃のままなのではなかろうか。

神代上第八段 八岐大蛇 一書第六
于時 神光照海 忽然有浮來者 曰 如吾不在者 汝 何能平此國乎 由吾在故 汝 得建其大造之績矣 是時 大己貴神問曰 然則汝 是誰耶 對曰 吾是 汝之幸魂奇魂也 大己貴神曰 唯然 廼知汝是 吾之幸魂奇魂 今 欲何處住耶 對曰 吾欲住於日本國之三諸山 故 即營宮彼處 使就而居 此大三輪之神也

于時 神光が海を照らす 忽然と浮き来る者有り 曰く もし吾が在らずは 汝 何ぞ能く此国を平らぐ乎 由(理由)は吾が在る故(ゆえ) 汝 其の大造の績を建て得る矣 是時 大己貴神は問い曰く 然らば則ち汝 是は誰耶 対し曰く 吾は是 汝の幸魂奇魂也 大己貴神は曰く 唯然り 廼(すなわ)ち汝は是と知る 吾の幸魂奇魂 今 何処に住むを欲する耶 対し曰く 吾は日本国の三諸山に住むを欲する 故 即ち彼の処に宮を営む 就いて居(お)ら使む 此は大三輪の神也

高倉下後裔 尾張氏

先述したように尾張氏には、綿津見を初代とする系図がある。
しかし日本書紀の神代下第一段(国譲りと天孫降臨)一書第六は、天忍穂耳と𣑥幡千千姫の子である天火明の子、天香山を尾張氏の祖と記す。一書第八も、天照国照彦火明命を尾張氏の遠祖と記す。

先代旧事本紀巻第五の天孫本紀は、天火明と饒速日を同一視して、高天原にいた頃の妃である天道日女とのあいだの子を天香山、天降って妃にした御炊屋姫とのあいだの子を宇摩志麻遅とする。

一般には綿津見を初代とする系図が正しいとして、尾張氏は海人族とされる。

先代旧事本紀の記述は、ヤマト建国前夜とも云えるこの時代、饒速日を祀る畿内において、尾張氏物部氏の祖先が幅を利かせていたことを表しているのではなかろうか。

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Wikipedia尾張氏」より抜粋・転写
神代下第一段 国譲りと天孫降臨 一書第六
天忍穗根尊 娶高皇産靈尊女子𣑥幡千千姬萬幡姬命 亦云高皇産靈尊兒火之戸幡姬兒千千姬命 而 生兒天火明命 次生天津彥根火瓊瓊杵根尊 其天火明命兒天香山 是尾張連等遠祖也

天忍穂根尊 高皇産霊尊の娘子の𣑥幡千千姫萬幡姫命を娶る 亦た云う高皇産霊尊の兒の火之戸幡姫の兒の千千姫命 而 生む兒は天火明命 次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む 其の天火明命の兒は天香山 是は尾張連等の遠祖也

神代下第一段 国譲りと天孫降臨 一書第八
一書曰 正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊 娶高皇産靈尊之女天萬𣑥幡千幡姬 爲妃而生兒 號天照國照彥火明命 是尾張連等遠祖也

一書に曰く 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 高皇産霊尊の娘の天萬𣑥幡千幡姫を娶る 妃と為して生む兒 號は天照国照彦火明命 是は尾張連等の遠祖也

先代旧事本紀巻第五 天孫本紀
照國照彥火明櫛玉饒速日尊 天道日女命爲妃 天上誕生天香語山命 御炊屋姫命爲妃 天降誕生宇摩志麻治命

天照国照彦火明櫛玉饒速日尊 天道日女命を妃と為す 天上に誕生するは天香語山命 御炊屋姫命を妃と為す 天降り誕生するは宇摩志麻治命

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先代旧事本紀天孫本紀 饒速日から八世孫倭得玉彦まで系図おこし