和様建築を見たくなって、滋賀県の西明寺を拝観したときのこと。
うろ覚えなのだが、地元タクシーの運転手さんが、大昔の彦根はハブ港だったと仰っていたと思う。曖昧な記憶だが、たぶん聞いた。
あれは五男神の天津彦根と活津彦根のことを言っておられたのではないかと思う。
西明寺は建築も庭も素晴らしい山寺でした。
神代上第六段(誓約)で誕生する五男神は、順序こそ違うが、顔ぶれは変わらない。
一書第三は五柱に熯之速日を加え、六男神としている。この熯之速日は、神代下第九段(国譲り)本伝に武甕槌の親として登場する。
本伝 | 一書第一 | 一書第二 | 一書第三 |
---|---|---|---|
天忍穂耳 天穂日 天津彦根 活津彦根 熊野櫲樟日 |
天忍骨 天津彦根 活津彦根 天穂日 熊野忍蹈 |
天穂日 天忍骨 天津彦根 活津彦根 熊野櫲樟日 |
天忍穂耳 天穂日 天津彦根 活津彦根 熯之速日 熊野忍蹈 |
誓約で誕生した三女神(田心姫・湍津姫・市杵嶋姫)は、宇佐から対馬までの交易路と推測した。これに倣って五男神に見合う交易路を探すなら、まず、一書第三で加えられた熯之速日は香取海へ至る道に比定できるだろう。
天忍穂耳は皇祖だ。
最終的な神武[1]が大彦であり、淡路勢と思われることから、宇佐から淡路に至る道が天忍穂耳の交易路と考える。
天穂日は神代上第六段(誓約)本伝に「是出雲臣土師連等祖也」と添書きがあり、国造本紀では14の国造の祖に挙げられている(当ブログ調べ)。
出雲臣、すなわち出雲国造は「以天穂日命 十一世孫宇迦都久怒」とある。
宇迦都久怒は、崇神[10]紀六十年秋七月に登場する鸕濡渟と同一とされる。鸕濡渟は出雲振根が殺した弟・飯入根の子だ。
この出雲振根のエピソードの舞台は丹波と推測した。
そして丹波大己貴の国譲りは、兄磯城討伐へ向かう淡路・久比岐勢を阻まなかったことと解釈した。このとき丹波大己貴が素通りさせた椎根津彦の通った道が、天穂日の交易路と考える。
「津」「彦根」を含む名前から、天津彦根と活津彦根はどこかの「津」と淡海国の「彦根」を結ぶ交易路と推測する。
淡海彦根の北に隣接する米原は、息長氏の本拠と目されている。
淡海彦根を端点にする交易路は3本が想定できる。
このうち琵琶湖北岸・若狭湾を経由して久比岐へ至る交易路は天穂日と推測した。
残る二つは、淀川を下る交易路と、陸路で尾張方面へ出る交易路だ。
天津彦根は神代上第六段(誓約)本伝に「是凡川内直山代直等祖也」と添書きがあり、国造本紀では15の国造の祖に挙げられている(当ブログ調べ)。
国造本紀において天穂日と天津彦根は、ほぼ同格に扱われていると考える。
地理的にみて、天穂日に比定した日本海の北陸に比肩するのは太平洋の東海だろう。
淡海彦根から陸路で尾張を経由して太平洋の東海を行き伊豆沼津へ至る道が、天津彦根の交易路と考える。
よって活津彦根は、淀川を下り茅渟海を渡って淡路へ至る交易路と考える。
淡路から紀伊半島の南を行く南海の道が、熊野櫲樟日の交易路と考える。
名前に含まれる熊野は紀伊半島の熊野だろう。
山陰出雲にも熊野大社があるが、杵築大己貴が妃神に田心姫と湍津姫を迎えていることから、山陰の日本海は三女神の交易路に付随すると考える。
四道将軍も山陰へは行ってない。
天忍穂耳の兄弟神は「宇佐―山陽―淡路」の延長にある交易路と推測する。
神代下第九段(国譲り)の一書第二は、高皇産霊が大己貴に「當主汝祭祀者天穗日命」と言って、天穂日が大己貴を祀ることを約束する。
天穂日は、天照と素戔嗚の誓約で誕生した五男神(六男神)の一柱だ。
神代上第六段(誓約)本伝は、天穂日に「是出雲臣土師連等祖也」、天津彦根に「是凡川内直山代直等祖也」と添書きする。先代旧事本紀巻十の国造本紀によると、この二柱の後裔から多くの国造が輩出されている。その内訳は関東に多い。
天穂日の後裔は、无邪志・上海上・伊甚・菊麻・阿波・新治・高/成務[13]、下海上/応神[15]の国造に任じられている。
天津彦根の後裔は、師長・須恵・馬来田・筑波/成務[13]、胸刺/記載なし、茨城・道口岐閇/応神[15]の国造に任じられている。
関東には経津主を祀る香取神宮、武甕槌を祀る鹿島神宮、天津甕星と建葉槌を祀る大甕神社が存在することを踏まえると、関東にも国譲りに類する歴史があるのではないかと思う。
大甕神社 由緒
国造本紀は、仁徳[16]朝に毛野国を上下に分割したと記す。
国造に任命されたのは上下とも豊城入彦の後裔だ。
豊城入彦の母について崇神[10]紀は、紀伊国荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛(一云に大海宿祢の娘の八坂振天某辺)と記す。
同母妹の豊鍬入姫は、崇神[10]紀六年に「以天照大神 託豊鍬入姫命」とある。
垂仁[11]紀二十五年三月に「離天照大神於豊耜入姫命 託于倭姫命」とある。倭姫命は垂仁皇女であり、母は丹波の日葉酢媛だ。そして倭姫が伊勢で天照を祀りはじめたと記す。
垂仁[11]紀は、豊城入彦の子である八綱田が狭穂彦を討伐したと記す。
狭穂彦は、「豊受太神宮禰宜補任次第」や「喚起泉達録」に記録された越中の阿彦であろうと推測した。また神代紀の天津甕星に相当するとも推測した。 阿彦を討伐したのは丹波氏の大若子だ。
日本書紀に記述は、丹波と豊城入彦の事績をつなげている。
丹波の首長は大己貴であり、丹波道主は開化[9]の孫(父は彦坐王)として皇統に取り込まれている。