天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

山陰勢の瓊瓊杵

日本書紀神代下第九段(国譲りと天孫降臨)の本伝が記す瓊瓊杵は、日向国に降った丹波勢である。日本各地に侵攻していった丹波勢をひとつにまとめて、景行[12]の事績にしている。

景行[12]は丹波の日葉酢媛から誕生したと記されているが、これを暗に否定する逸話がある。
応神紀13年の一云(鹿皮を被った牛)については、2022/11/22の記事で言及した。

もうひとつ、垂仁紀87年の「牟士那の腹から八尺瓊勾玉がでた」逸話も、日向国へ降った丹波勢の瓊瓊杵の出自を否定するものだろう。
丹波の皇統は鹿のはずだ。正統でない貉腹の瓊と指摘している。

本伝の瓊瓊杵(丹波の日葉酢媛の子と記される景行[12])は日向国へ行った。
これは允恭[21]の祖先になる。

初期天皇の活動年代表

少なくとも三人の素戔嗚が存在することは三勢力それぞれの八岐大蛇退治で述べた。大己貴も、少なくとも二人(山陰勢と丹波勢)が存在する。

瓊瓊杵も複数人が存在する。
そのひとり、一書第一が記す瓊瓊杵は、狭穂姫が生んだ誉津別である。

上宮記逸文から、誉津別=誉田天皇(応神[15])と知れる。
これは山陰へ行き、仲哀[14]と住吉仲皇子と継体[26]の祖先になる。

綏靖[2]の子孫が孝昭[5]
孝昭[5]=垂仁[11]
孝安[6]=応神[15]=誉津別
誉津別(孝安[6]・応神[15])の子、または孫が仲哀[14]
仲哀[14]=葛城襲津彦
仲哀[14]と神功の子が住吉仲皇子

葛城の血筋

綏靖[2]の葛城高丘宮は奈良県御所市にあったと目されている。
wikipedia「皇居」の一覧「歴代の皇居」によると、奈良県御所市に宮を構えた天皇は三人しかいない。

綏靖[2]の葛城高丘宮(奈良県御所市)
孝昭[5]の掖上池心宮(奈良県御所市)
孝安[6]の室地秋津嶋宮(奈良県御所市)

襲津彦の名前に「葛城」をつける理由は、綏靖[2]の子孫だからだろう。

また、推古紀32年十月、蘇我馬子が葛城縣を臣之本居であると主張して、封縣を願い出たが却下されている。考察するに、馬子の言い分にも一理ある。

蘇我氏の祖と記される武内宿祢は山陰勢である。
蘇我氏は高志の三か国(三国・江沼・伊弥頭)の国造である。
伊弥頭国は越中富山県射水市)であり、阿彦=狭穂彦と推測される。
狭穂彦の妹・狭穂姫が誉津別を生んだ。
誉津別が山陰へ降る。

日本武と白鳥

山陰へ行った誉津別が、一書第一の瓊瓊杵である。

垂仁紀23年九月・十月・十一月、発達性言語障害らしき誉津別が鵠を見て「是何物耶」と喋る。この鵠を、天湯河板挙が出雲国または但馬国で捕獲して献上する。

古事記では、尾張国の杉でつくった船で池遊びをする誉津別が鵠を見て喋りそうになったが喋らず、占いで出雲大神の祟りとされたため、誉津別が山陰へ行き参拝する。その帰路で「是於河下 如青葉山者 見山非山 若坐出雲之石𥑎之曽宮 葦原色許男大神 以伊都玖之祝大廷乎」と喋る。

誉津別が喋るきっかけになった鵠は、白鳥と目されている。
薨去してのち日本武の御魂は白鳥になる。
日本武は死の直前、尾張国の宮簀媛のもとに草薙剣を置いてゆく。

草薙剣は、はじめ信越勢(海神族)の剱だった。
2世紀、丹波勢が科野の有力者を襲撃して、草薙剣を奪う。
4世紀前期頃、草薙剣を所有する丹波勢が越中(狭穂彦=天津甕星=阿彦)と戦い、勝利する。
4世紀中期頃、草薙剣を所有する丹波勢から大王(孝霊[7])が立つ。
4世紀後期頃、山陰勢(武内宿祢)と北九州勢(神功)と信越勢(和珥氏)が丹波勢を討伐して、山陰勢から大王(孝元[8])が立つ。
草薙剣尾張氏(海神族)に渡る。

よって、日本武は山陰勢である。

日本武の事績は、日本各地に侵攻していった山陰勢をひとつにまとめたもの。
血筋としては、誉津別の子か? あるいは誉津別本人か?

それから、トーテムと呼ぶべきか。
山陰勢の皇統は白鳥、日向勢の皇統は隼である。

猿田彦と山陰

一書第一の瓊瓊杵は、山陰へ行った誉津別である。
この瓊瓊杵が降るとき猿田彦が出迎えて案内したと、一書第一は記す。
そして出雲国二宮の佐太神社は、主祭神の佐太を猿田彦と同一視している。

一書第一には「其猿田彦神者 則到伊勢之狭長田五十鈴川上」とある。
伊勢津彦饒速日と同一視する説があり、饒速日を祖とする物部氏物部神社は山陰の石見国にある。

古事記は、山陰へ行く誉津別に曙立王と菟上王が付き添ったと記す。
曙立王と菟上王は、開化[9]皇子である彦坐王の孫。
開化[9]の和風諡号は稚日本根子彦大日々天皇であり「日々」から饒速日が連想されることから、物部氏を推定している。

猿田彦物部氏か? 物部氏に近しい縁者か?