天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

小倉百人一首 7番 阿倍仲麻呂が詠んだ月

小倉百人一首は歴史の教科書だ。
と、聞いたことがある。何年か前にはネットでも記事を読んだ。と、思う。
たぶん。

それで以前、阿倍仲麻呂の歌を考察した。
だが今になって、結論が間違っていたと考えている。

小倉百人一首 7番 阿倍仲麻呂
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出(い)でし月かも

【当ブログの解釈】
あまのはら
 →高天原(海人の原) →神々の時代(寿命が長い仁徳[16]まで)
ふりさけみれば
 →振り裂けみれば →振り裂けるように終わってみれば
かすが
 →春日和珥氏(忍熊王討伐・両面宿儺討伐を行った和珥武振熊の子孫)
なる
 →成る →成りあがる
みかさのやまにいでしつき
 →三笠山奈良盆地の北東。のち768年に春日大社が西麓に造営)に出る月

和珥武振熊の子である米餅搗大使主は、もとの名を「中臣佐久」という。
と、阿波国風土記が記すので、以前は和珥氏を疑っていたが、今は続風土記の記述を疑っている。

春日大社の祭神は、武甕槌・経津主・天兒屋・比売神
比売神の正体は和珥氏の后妃、雄略[21]妃の春日和珥童女君・仁賢[24]皇后の春日大娘皇女・安閑[27]皇后の春日山田皇女だろう。
そもそも春日大社の名称の由来は、春日を名前に含む彼女たちではなかろうか?

春日和珥氏の后妃

阿波国風土記が編纂された明治初期、春日大社比売神が和珥氏の女性たちと知っていたから、中臣氏と和珥氏に濃い縁があると想像したのではないか?

明治神道は伊勢中臣氏を中核に据えている。
故意に、中臣氏がより良くみえるように小細工した可能性もあると思う。

推測するに。
もとから和珥氏の后妃を祀っていた三笠山を、春日大社造営した768年当時の有力氏族である藤原氏が祀るようになり、中臣氏由来の武甕槌・天兒屋を祭神に加え、さらに国譲り神話で武甕槌と組んでいる経津主も加えたのではないか?

事情は知らないが、和珥氏の三笠山藤原氏が入り込んだ。
阿倍仲麻呂の歌にある「三笠の山に出でし月」は、藤原氏と中臣氏の比喩だろう。

月神は月読である。
第五段(神生み)一書第六に「月読尊者 可以治滄海原潮之八百重也」とある。月と潮流の関係が反映された神話であり、瀬戸内の潮流は無視できない。

日向国から瀬戸内を通って東征した神武[1]は允恭[19]であり、このとき既にヤマトには政治があった。つまり建国の功を立てるには、日向勢は完全に出遅れた。天孫降臨と海幸山幸は、ヤマト建国に関われなかった日向勢を、建国最大の功労者として偽るために挿入された逸話であり、同じ目的で神武[1]と崇神[10]を創作している。とくに崇神[10]は、本来の最大功労者である大彦を格下げする役割を担っている。

偽りの歴史を定着させるには、長く権力者として君臨してなければなるまい。それは藤原氏および中臣氏しかいない。日向勢の允恭[19]を虚飾する嘘は、藤原氏と中臣氏にとって都合が良いのだろう。

おそらく中臣氏は、允恭[19]とともに近畿へ行き、紀伊半島をまわって丹敷戸畔を殺害したのち、伊勢津彦を立ち退かせて伊勢国に居座った。しかし、允恭の後継者である木梨軽皇子は失脚して、一説には伊予国へ流される。允恭の東征はヤマトの中核に届かず、撤退を余儀なくされたのだろう。

この仮説は、乙巳の変(645年)以前の中臣氏が、貴族としては中流以下だったことと矛盾しない。

そして、日向勢の允恭[19]と行動を共にした中臣氏のルーツにうってつけの地域がある。先代旧事本紀巻第十の国造本紀にある波多国造(土佐国西部、崇神朝)だ。

先代旧事本紀 巻第十 国造本紀
波多国造
瑞籬朝御世 天韓襲命 依神教云 定賜国造

神武朝と崇神朝に任命された国造はどれも建国神話への関与が伺えるのだが、波多国造だけが例外だ。だがそれも、中臣氏のルーツならば納得だ。
建国神話への関与が伺えないのは事実、関与してないからだろう。

そして波多国が中臣氏のルーツなら。 藤原氏が「三笠の山に出でし月」に例えられたのだから、月読は四国西部の神と考えていいだろう。

四国には古事記由来の地名が多いというが、古事記編纂以後の中臣氏の仕業では? 長く権力を握っていれば、地名を変えることなど容易かろう。