天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

初期天皇の時代考証(改訂版)

初期天皇時代考証を、垂仁紀の逸話「狭穂彦討伐」を手掛かりに修正。

この表の利点は、
和珥武振熊の活動年代を4世紀後期に絞れること。
武内宿禰も4世紀中期と後期の約70年間に絞れること。

初期天皇時代考証 改訂版

応神(誉田)の幼少期=誉津別=孝安[6]
弘文[39](大友皇子)同様、実は即位してない可能性が高い。
よって孝昭[5]と同じ時代区分にまとめる。

懿徳[4]=天稚彦
丹波大己貴に阿った懿徳[4]を信越勢が排除、孝昭[5]が大王位につく。
このときが国譲りの本伝。3世紀後期~4世紀前期のこと。

垂仁[11]=孝昭[5]
越中の阿彦伝承においては支那夜叉(狭穂姫)の夫、邵天義。
よって信越勢(高皇産霊)。

景行[12]は、筑紫へ派遣された孝霊[7]の配下。
和風諡号「大日本根子彦太瓊」の「太瓊」を素に「瓊瓊杵」と名づけたか?
丹波勢。

武内宿禰=孝元[8] ←new idea!
山陰勢だが、筑紫勢(神功・天照神皇産霊)の影響が強い。
杵築大己貴。

物部大前(饒速日)=開化[9]。
東海勢。筑紫勢を後ろ盾にする孝元(杵築大己貴)を排除。
これが国譲りの一書第二。4世紀後期~5世紀前期のこと。

この時代考証を踏まえて、自説を改めるべき点。
天照の筑紫勢と、高皇産霊の信越勢はどちらも海人族とされるが、4・5世紀には敵対していた。5世紀、近畿の倭氏は、ルーツは信越だが、筑紫側についた。

信越勢と筑紫勢をまとめて海人族とする理由は、允恭[19]以前のヤマト王権の中核だから。允恭以前のヤマトから敬われた勢力が海人族。