天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

伊勢内宮についての仮説

当ブログでは『仮説』という語句を「妄想のなかで貫かれる理屈」と定義して、今後は、鵜呑みにしてはならない記事への注意喚起として表題に使用する。
たとえば、この記事のような類いである。

何年前か覚えてないが、ネットのどこかで「伊勢神宮の内宮に死体が埋まっている」というオカルト話を読んだ。垂仁[11]紀にある殉死者のご遺体だと云う。

垂仁[11]紀 二十八年冬十月丙寅朔庚午
廿八年冬十月丙寅朔庚午 天皇母弟倭彥命薨 十一月丙申朔丁酉 葬倭彥命于身狹桃花鳥坂 於是 集近習者 悉生而埋立於陵域 數日不死 晝夜泣吟 遂死而爛臰之 犬烏聚噉焉

二十八年冬十月丙寅朔庚午 天皇母弟の倭彦命が薨(みまか)る 十一月丙申朔丁酉 倭彦命を身狭桃花鳥坂に葬る 於是 近習の者を集める 悉く生きて陵域に埋め立てる 数日死なず 昼夜泣き吟(うめ)く 遂に死にて爛臰(クサリス)之 犬烏が聚まり噉(く)らう焉

あまりの凄惨さに、垂仁は殉死を禁じる。そして三十二年に亡くなった皇后の日葉酢媛は、殉死に代えて埴輪を陵墓に立てて葬った――と垂仁紀は記すが、埴輪の起源はもっと遡れるうえに、殉死のご遺体も未発見であるため、この逸話は史実ではないと一般に考えられている。

筆者が見かけたオカルト話では、埴輪の起源譚は創作だとしても、生き埋めにされて亡くなった人々はいたと解釈するのだろう。

また垂仁紀は、倭姫が天照の坐す所を伊勢に定めたと記す。倭彦と倭姫、名前が似ていることから、倭彦が伊勢に葬られたという話になったのではないかと思う。

垂仁[11]紀 二十五年春 三月丁亥朔丙申
離天照大神於豐耜入姬命 託于倭姬命 爰 倭姬命 求鎭坐大神之處 而 詣菟田筱幡筱 此云佐佐 更還之入近江國 東 廻美濃 到伊勢國 時 天照大神 誨倭姬命曰 是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國 故 隨大神教 其祠立於伊勢國

豊耜入姫命に於ける天照大神を離す 倭姫命に託す 爰に 倭姫命 大神の鎮まり坐す之処を求める 而 菟田筱幡筱を詣でる 此れ云う佐佐 更に之を還り近江国に入る 東 美濃を廻る 伊勢国に到る 時 天照大神 倭姫命に誨え曰く 是は神風伊勢国 則ち常世の浪は浪を重ね帰る国也 傍国(かたくに)の可怜(ウマシ)国也 是国に居るを欲する 故 大神の教えの隨に 其の祠を伊勢国に立てる

倭姫は日葉酢媛が生んだ垂仁皇女、倭彦は御間城姫が生んだ崇神皇子だ。
ただし筆者は、吉備津彦を吉備の豪族、丹波道主を丹波大己貴、豊城入彦を関東の豪族、倭迹迹日百襲姫を奴奈川姫と考えており、初期天皇の子女は必ずしも血族によらないと見ている。したがって倭姫と倭彦は、実際は倭氏のヒメとヒコだろうと推測している。

もしも本当に、倭彦と殉死者が伊勢の内宮に埋められているならば。
伊勢国造の天日鷲が、倭彦と同一人物とは考えられないだろうか。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
伊勢国
橿原朝(神武) 以天降天牟久怒命 孫天日鷲 勅定賜国造

伊勢国風土記逸文に、天日別(中臣氏祖)が伊勢津彦に立ち退きを迫った説話があるため、一般には国造本紀の天日鷲は天日別の誤記と考えられている。
だが、すっかり中臣氏に猜疑心を抱いている筆者には、国造本紀より伊勢国風土記の記述のほうが怪しく思える。

長髄彦討伐後、神武(大彦)に帰順した饒速日伊勢津彦)が伊勢に椎根津彦(倭氏祖)を招いたのではないか?

さらに、地上波放送でキングダムを視聴している筆者は勘繰る。その伊勢へ天日別が侵攻して、倭彦を殺害したうえで捕虜を埋めたのではないかと。
秦国六大将軍の白起が長平で趙国の捕虜を埋めたアレである。

現在、中臣氏へ向ける筆者の印象は落ちぶれ果てているのだ。