天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第十章 天津甕星と狭穂彦と越中阿彦

前回の要点:
武渟川別東海道派遣は、科野と関東の交流を投影したもの。
協調派と対立派に意見が割れていた丹波では、国譲りののち対立派が優勢になり、日本武と仲哀による九州出兵が起きた。九州から来た武振熊が仲哀庶子の忍熊王を討伐して以降、丹波は衰退する。九州は翡翠産地に入り込んだ丹波の血筋も排除した。これが両面宿儺であり、椎根津彦嫡流の久比岐青海氏は消失する。この抗争の敗者が大物主であり、祭主の三輪氏は久比岐青海氏の流れを汲む。
崇神は個人としても勢力としても実在しない。
「天兒屋」「武甕槌」「豊城入彦・八綱田・御諸別」は敵対勢力。
越中西部の首長が観松彦・観松姫であり、事代主後裔にあたる。綏靖[2]皇后の御間城姫は大彦と越中西部の女性のあいだの子で、観松姫でもある。

喚起泉達録が記す阿彦

喚起泉達録は江戸時代(享保、吉宗[8])に富山藩士の野崎伝助が著した越中郷土史。伝助の孫の野崎雅明は越中通史の肯構泉達録を著した(文化、家斉[11])。
上記二書は、越中の阿彦が大若子に退治される話を収録している。

喚起泉達録が記す阿彦について、ファンタジー色を抜いて大雑把にまとめると。
(1)北陸道へ派遣された大彦は、越中を手刀摺彦に任せ帰洛した。
(2)阿彦峅も走長に任じられたが、大彦の帰洛後はこれに従わず、民を虐げた。
(3)阿彦峅の姉の支那夜叉は越後黒姫山の邵天義に嫁ぎ支那太郎を生んだ。苛烈な気性の母子は、温厚な邵天義の殺害を企てたが察知され、越中阿彦峅の元へ帰された。
(4)阿彦峅らの暴虐を恐れて従う者もいて、阿彦勢力は拡大した。
(5)手刀摺彦も豪族をまとめ対抗したが勝てなかった。そこで帝に上奏して官軍を要請した。
(6)大若子が派遣され、苦戦するもなんとか阿彦を討伐した。

大若子による阿彦討伐は、豊受大神宮禰宜補任次第にも記されている。

豊受太神宮禰宜補任次第 大若子命 上記デジタル書籍より文字起こし
大若子命 一名大幡主命
右命。天牟羅雲命子天波與命子天日別命第二子彥田都久禰命第一子彥楯津命第一子彥久良爲命第一子也。
越國荒振凶賊阿彥在不從皇化。取平。標劒賜遣。即幡主罷行取平返事白時。天皇歡給。大幡主名加給
垂仁天皇即位二十五年丙辰。皇大神宮鎭座伊勢國五十鈴河上之時。御供仕奉爲大神主也。

右命 天牟羅雲命 子の天波與命 子の天日別命 第二子の彦田都久祢命 第一子の彦楯津命 第一子の彦久良為命 第一子也
越国 荒振る凶賊の阿彦 在 皇化に従わず 平げ罷める詔を取る 標の劒を賜り遣わす 即ち幡主は罷り行き 平を取る 返し事を白す時 天皇は歓び給う 大幡主の名を加え給
垂仁天皇即位二十五年丙辰 皇大神宮伊勢国五十鈴河上に鎮座する 之の時 仕え奉る御供 大神主と為る也。

大若子の弟の乙若子は、伊勢外宮宮司世襲する度会氏の祖だ。
伊勢外宮の祭神である豊受大神丹後国の籠神社に祀られていたが、雄略[21]の御代に天照の神託によって丹波(丹後)から遷座したと伝わる。

wikipedia 度会氏 2021年7月転写
度会氏の祖は天牟羅雲命(天児屋命の子)であると伝えられ、伊勢国造の後裔であるとされる。しかし彦坐王の後裔・丹波国造の一族の大佐々古直が石部直渡会神主の祖と系図に見えており、後者が実際の系図であったとされる。当初は磯部氏を称していたが、奈良時代に渡会(渡相)神主姓を下賜されたという。

大若子は丹波勢なので、丹波越中を攻め落としたと考える。

星城

喚起泉達録の「手刀摺彦越之地ヲ司シ尚郷人ヲ定事」に、手刀摺彦が十二方位の城に在地豪族を配置したとある。記述があるのは卯辰(巳)午未(申)酉(戌)亥で、そのうち巳申戌は越中四郡に無いとし、卯辰午未酉亥の六城についてのみ詳細が記されている。

さらに、卯辰山ノ城を中央城(なかち城)と定め、一説には星城とも云うと記す。
この城にある星石が空へ昇り光る様子から吉凶を知れるというのだが、非現実的で難解なので割愛する。ともかく、手刀摺彦が定めた中央城には星城という異名がある。

星城がある場所の地名は、伝助の時代(享保)には「中地」と誤って伝わっているとも記す。現代の地図では、富山県富山市中地山は立山山頂から西へ20kmほどの所にある。

星関連では他に、大若子の指揮のもと佐留太と甲良彦が支那夜叉を追い詰めたとき、阿彦配下の強狗良の鉾が佐留太の鉾の鉄鍔(つみは)にあたり、破損した鉄鍔が飛んで立山の中程に落ち、美加保志(ミカホシ)になったと記す。

二つの逸話から、越中東部は星に縁深い地域だったと考える。
越中の阿彦が、日本書紀の国譲り(神代下第一段)にて退治された天津甕星(アマツミカボシ)なのだろう。

狭穂姫

垂仁皇后である狭穂姫は、兄である狭穂彦の謀反に加担するも非道になれず、悩んだすえ垂仁に打ち明け、垂仁は八綱田に討伐させたと、垂仁紀は記す。狭穂姫は、後添えに丹波道主の娘を迎えるよう垂仁に進言して、戦場で亡くなる。

阿彦の姉である支那夜叉は、越後黒姫山の邵天義とのあいだに支那太郎を儲けるが、邵天義の殺害を企てたことが露見して阿彦のもとへ返され、そして大若子と戦ったと、喚起泉達録は記す。

狭穂姫と支那夜叉は、立場や結果を抽出してみると似ている。

尾張国風土記逸文に、一人目の垂仁[11]皇后である狭穂姫が生んだ誉津別皇子の言語障害を治癒する逸話がある。解決手段は異なるが、垂仁紀も誉津別が喋れるようになる逸話がある。

誉津別命及壮而不言 上記デジタル書籍より文字起こし
尾張風土記中卷曰 丹波郡 吾縵郷 卷向珠城宮御宇天皇 品津別皇子 生七歳而不語傍問群下 無能言之 乃後皇后夢有神告白 吾多具國之神 名曰阿麻乃彌加都比女 吾未得祝 若爲吾充祝人 皇子能言亦是壽考 帝卜人覓神者 日置部等祖建岡君卜食 卽遣覓神 時 建岡君到美濃國花鹿山 攀賢樹枝造縵 誓曰 吾縵落處 必有此神 縵去落於此閒 乃識有神 因竪社 由社名里 後人訛言阿豆良里也(釈日本紀十 誉津別命及壮而不言)

(訳文:上記の岩波文庫風土記」のコマ番号148/291)

垂仁[11]紀廿三年秋九月丙寅朔丁卯
廿三年秋九月丙寅朔丁卯 詔群卿曰 譽津別王 是生年既卅 髯鬚八掬 猶泣如兒 常不言 何由矣 因有司而議之 冬十月乙丑朔壬申 天皇立於大殿前 譽津別皇子侍之 時 有鳴鵠 度大虛 皇子仰觀鵠 曰 是何物耶 天皇則知皇子見鵠得言 而 喜之 詔左右曰 誰能捕是鳥獻之 於是 鳥取造祖天湯河板舉奏言 臣必捕而獻

二十三年秋九月丙寅朔丁卯 群卿に詔り曰く 誉津別王 是の生年は既に三十 髯鬚は八掬 猶も兒の如く泣く 常に言わず 何の由矣 因て司有りて之を議る 冬十月乙丑朔壬申 天皇は大殿前に立つ 誉津別皇子は之に侍る 時 鳴鵠有り 大虚(空)を度(渡)る 皇子は鵠を仰ぎ観る 曰く 是は何物耶 天皇は則ち皇子が鵠を見て言を得るを知る 而 之を喜ぶ 左右に詔り曰く 誰ぞ能く是の鳥を捕え之に献ぜよ 於是 鳥取造祖の天湯河板挙は奏じ言う 臣は必ず捕えて献じる

―― 中略 ――

十一月甲午朔乙未 湯河板舉 獻鵠也 譽津別命 弄是鵠 遂得言語 由是 以敦賞湯河板舉 則賜姓 而 曰鳥取造 因亦定鳥取部鳥養部譽津部

十一月甲午朔乙未 湯河板挙 鵠を献じる也 誉津別命 是の鵠を弄ぶ 遂に言語を得る 是の由 以て湯河板挙を敦く賞する 則ち姓を賜る 而 鳥取造と曰く 因て亦た鳥取部鳥養部誉津部に定める

風土記に逸話を記すなら、狭穂彦・狭穂姫と尾張氏には縁があるのだろう。
尾張氏祖の高倉下嫡流は、翡翠海岸がある越中東部の首長氏族と考えられる。狭穂彦・狭穂姫は越中東部の首長ではなかろうか。

よって「狭穂彦=阿彦=天津甕星」「狭穂姫=支那夜叉」「誉津別=支那太郎」と考える。

草薙剱

喚起泉達録は、大若子が火に巻かれたとき剱が自ら抜けて周囲の草を薙払い、炎を食い止めたのでこの剱を草薙剱と称すると記す。日本書紀は類似の話を景行[12]40年10月、東征に赴く日本武のエピソードとして記す。

日本武は、崇神[10]紀が記す出雲振根と類似する謀略を出雲建討伐に用いることから、丹波の対立派を象徴する存在だろうと推測した。狭穂彦討伐も淡路勢・久比岐勢と対立する行為だった可能性がある。狭穂彦が謀反したとか、垂仁が討伐を命じたなどの記述は、虚偽かもしれない。

豊受太神宮禰宜補任次第は「標劒賜遣」と記し、阿彦討伐の勅を下した垂仁が大若子に草薙剱を賜ったと記す。

丹波大己貴は、越前素戔嗚の子孫と推測した。
草薙剱は、航海の途中に立ち寄った科野勢(戸隠神社九頭龍大神=八岐大蛇)を、越前勢が襲撃して入手した剱と推測した。
素戔嗚は天照に草薙剱を献上ぜず、子孫の丹波大己貴が受け継いだのだろう。

科野の穂高見、久比岐の椎根津彦越中東部の高倉下は系図上同族だ。
そして高倉下嫡流である狭穂彦の討伐に、この草薙剱が使われた。
現代、草薙剱は高倉下後裔尾張氏所縁の熱田神宮にて祀られている。

八綱田

垂仁[11]紀に狭穂彦を討伐したと記される八綱田は、崇神妃の遠津年魚眼眼妙媛が生んだ豊城入彦皇子の子だ。八綱田の子である彦狭島は(八綱田と同一説がある)先代旧事本紀巻十の国造本紀に上毛野国造と記される。

古事記が記す建御名方と武甕槌の戦いは、科野と上毛野の抗争のことではないかと推測した。古事記では建御名方が武甕槌に敗れ、垂仁紀では狭穂彦が八綱田に討伐される。古事記と垂仁紀の記述は対応しているようだ。

だがしかし地元越中の伝承では、阿彦を討伐したのは丹波勢の大若子だ。

加えて、科野には饒速日勢が加勢した。
先代旧事本紀巻十の国造本紀は、諏訪湖から太平洋へ流れる天竜川の河口付近にあたる遠江・珠流河・久努に物部氏を任じると記しており、饒速日勢は科野へ通じる道を確保していたと考えられる。

饒速日の後裔である物部氏飛鳥時代にも有力な軍事氏族として存在する一方、関東は防人など苦役を負担させられる。のちの状況をみれば、上毛野勢が饒速日勢に勝利したとは考えにくい。
記紀編纂時の朝廷には、虚偽を書き連ねてでも関東に配慮しなければならない何らかの事情があったのかもしれない。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
素賀國造
橿原朝(神武)世 始定天下時従侍来人名 美志印命 定賜國造
遠淡海國造
志賀髙穴穂朝(成務) 以物部連祖伊香色雄命 兒印岐美命 定賜國造
珠流河国造
志賀髙穴穂朝(成務)世 以物部連祖大新川命 兒片堅石命 定賜國造
久努國造
筑紫香椎朝(仲哀)代 以物部連祖伊香色男命 孫印播足尼 定賜國造

伊弥頭(射水

越前の剱神社は地元民に慕われる英雄として素戔嗚を祀り、飛騨の千光寺は両面宿儺を開山の祖と伝える。記紀神話が悪しざまに記しても地元民は慕うものだろう。
しかし地元越中の伝承において阿彦は完全な悪者だ。

越中の伝承は、外部圧力により捻じ曲げられたのではなかろうか。
その原因に、越中西部の伊弥頭国造に任じられた蘇我氏が関係するかもしれない。

先代旧事本紀 国造本紀
三國國造
志賀髙穴穂朝(成務)御世 宗我臣祖彦大忍信命 四世孫若長足尼 定賜國造
伊弥頭國造
志賀髙穴穂朝(成務)御世 宗我同祖建内足尼 孫大河音足尼定 賜國造
江沼國造
柴垣朝(反正)御世 蘇我臣同祖武内宿祢 四世孫志波勝足尼 定賜國造

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蘇我氏と四隅突出墳と越中一宮

釈日本紀が記す上宮記逸文は、継体[26]の祖を「凡牟都和希王」と記したうえで、横に「譽田天皇也」と添える。ホムタは応神[15]のことだが、ホムツワケ(誉津別)は垂仁[11]と狭穂姫のあいだに生まれた皇子のことだ。

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継体[26]系図 上記デジタル書籍より転写
wikipedia 上宮記 2021年7月転写
7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書。『日本書紀』や『古事記』よりも成立が古い。 ――中略―― 編者は不詳。上・中・下の3巻から成るか。 ――中略―― 神代の記述も存在したらしいが、まとまった逸文継体天皇聖徳太子関連の系譜で占められる。

聖徳太子は、父方(用明[31])の祖母が蘇我稲目の娘の堅塩媛、母方(穴穂部間人皇女)の祖母も蘇我稲目の娘の小姉君であり、蘇我系の皇子だ。上宮記のほうが正しい可能性もあるが、蘇我氏に都合の良い歴史改竄である可能性もある。

蘇我氏は王家だったとする説もある。
また、越中西部の首長は事代主後裔である可能性があり、ひいては蘇我氏と事代主になんらかの縁がある可能性も考えられるだろう。

越中一宮について補足

越中には一宮が四社もある(全国最多)。東から順に

雄山神社立山雄山神・刀尾神】
雄山山頂は立山山頂のわずか350mほど南にある。山頂から西方向の称名川(合流して常願寺川)に沿って雄山神社が点在する。喚起泉達録が記す「星城」があった中地山もこのあたり。

【氣多神社:大己貴・奴奈川姫】
石川県羽咋市にある氣多大社から勧請したと伝わる。

射水神社二上神(二上山)】
二上山山頂は射水神社の北方向4.6kmほどにある。標高274m。

【髙瀬神社:大己貴】
この地を大己貴が平定した伝承がある。

越中一宮 髙瀬神社
「在昔、大己貴命北陸御経営ノ時、己命ノ守リ神ヲ此処ニ祀リ置キ給ヒテ、ヤガテ此ノ地方ヲ平治シ給ヒ、国成リ竟ヘテ、最後に自ラノ御魂ヲモ鎮メ置キ給ヒテ、国魂神トナシ、出雲ヘ帰リ給ヒシト云フ。」(高瀬神社誌15~16頁)