天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

5世紀、畿内の九州勢は大和勢に屈した

越前から出雲勢を追いやった神逐により、中部日本海の青海氏、琵琶湖・淀川・茅渟海の息長氏、瀬戸内・玄界灘の吉備氏が繋ぐ交易路が完成した。

国譲り後ではないかと思うが、青海氏は高志深江に進出して青海郷(現在の加茂市)を開拓したと伝わる。ちなみに加茂の名は、青海神社の御由緒によれば、794年(平安遷都)に京都上賀茂・下賀茂神社神領になった際に御分霊を祭りはじめたことに由来するそうだ。

越後加茂青海神社 由緒 年表

京都上賀茂・下賀茂神社との縁は、大彦の妻になった久比岐の女性(倭迹々姫)が媛蹈韛五十鈴媛のモデルであることに因んでいるのだろう。(過去記事:綏靖[2]のモデルは武渟川別かもしれない

加茂の青海神社は、越後平野信濃川を挟んで弥彦神社の東南東20km余りの山裾にある。青海神社は弥彦神社に呼応する一面があるのだろう。
弥彦神社の祭神である天香山に例えられる個人は大彦だろうから、夫婦神である。

二社間の距離20kmは、香取海を挟んで13kmの鹿島神宮香取神宮と比べると少し遠いと感じるが、当時の越後平野が氾濫原性低地で、使いにくい土地だったことを考えれば妥当と思える。
ちなみに、青海神社から新津丘陵の山裾沿い北東13kmほどに古津八幡山遺跡がある。

新潟市 潟のデジタル博物館 潟の成り立ち

新潟市 国指定史跡 古津八幡山遺跡について

高志深江の開拓によって、青海氏と息長氏と吉備氏が繋ぐ交易路の東端が弥彦まで伸びた。西端は宇佐だ。
弥彦神社宇佐神宮は現在、二拝四拍手一拝を作法としている。
出雲大社も四拍手だが、おそらく別口だろう。

青海氏は椎根津彦の後裔であり、倭氏と近しい同族である。
九州勢に与する氏族だったが、この倭氏は履中[17]紀が記す住吉仲皇子の抗争(※)で大和勢に屈したと思われる。

この抗争について、日本書紀は住吉仲皇子の反逆の理由を色恋沙汰としているが、古事記皇位簒奪としている。
Wikipedia「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」によると、履中[17]は70才で崩御して、在位は6年(古事記は5年)と日本書紀に記されている。64才の色恋沙汰、そのうえ皇后とは一女を儲けただけなのに、在位6年のあいだに黒姫と二男一女を儲けた。

色恋沙汰の件は虚構だろう。
しかも虚構であることを見抜けるように配慮されているようだ。

住吉仲皇子には阿曇連濱子と倭直吾子籠が味方した。阿曇氏と倭氏は九州勢だ。
加えて、濱子が履中[17]にかけた追手は、淡路野嶋の海人であると名乗る。現代の地図では、舟木遺跡(淡路島)の北々西2kmほどの海岸沿いに淡路野島が見つかる。

履中[17]には平群木菟宿祢と物部大前宿祢と漢直祖阿知使主が味方した。平群木菟は武内宿祢の子、物部氏饒速日勢、東漢氏は渡来氏族であり、疑心暗鬼に陥った履中が籠った石上神宮は物部系の神社だ。

実際は、九州勢が推す住吉仲皇子と、大和勢が推す履中[17]の皇位争いだったのではなかろうか。

古事記は仲皇子が履中から皇位を奪おうとしたと書いている。だが日本書紀は、古事記の記述を採用しなかった。はたして履中は本当に皇太子だったのだろうか?
履中[17]は仁徳[16]の第1皇子であり、次代の反正[18]と允恭[19]は弟だ。末子相続と父子相続の慣習が崩れている。

いずれにせよ淡路の阿曇氏と倭氏は、この抗争に敗れた。
このあとの雄略[21]紀に、吉備氏の乱が記される。履中[17]から4代と数えると長い気がするが、履中[17]反正[18]安康[20]の治世は短いので、日本書紀の記述によれば、住吉仲皇子の件から64年後のことだ。

コトバンク 吉備氏の反乱

履中[17]の治世は5世紀前半、雄略[21]は5世紀後半と目されている。
この時期に、大和は九州の影響下から脱したと推測する。
そして継体[26]の御代に磐井の乱(527年)が起きて、大和は九州本丸と交戦した。

コトバンク 磐井の乱

6世紀初頭に、久比岐は玉造りをやめた。
大和が支配を強めていったことと無関係ではないように思うが、どうだろうか?