天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

椎根津彦は久比岐の海人族

九州勢(大彦の氏族や尾張氏)の近畿入植はあったが神武東征はなかったと当ブログは考えている。皇統とされる橿原勢及び饒速日勢は、弥生後期の2世紀以前には大阪平野に根差していた在地勢力とみる。
そこへ九州勢が瀬戸内航路を開き、淡路島に住みついた。

だからといって神武東征の記述に意味がないとは考えない。
おそらく日本書紀は、虚偽の説話を創作する場合には、真実につながる暗示を織り交ぜている。

例えば、当ブログが奴奈川姫をモデルに倭迹迹日百襲姫が創作されたと考えるのは、崇神[10]紀(※)にある「天皇の姑」という、欠史八代[2-9]紀の系譜とは食い違う記述を根拠にしている。また、亡くなった姫を葬るための箸墓古墳を築造する人足がうたった歌が「越」を繰り返すことも、暗示の可能性があると思う。

飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂 ――大坂(おほさか)に 継(つ)ぎ登(のぼ)れる 石群(いしむら)を たごしに越(こ)せば 越しがてむかも

神武東征はフィクションだけれど、史実を仄めかす暗示が散りばめられている可能性が高いと思う。読み込んで考察する価値は大いにあるだろう。

神武一行は、
日本書紀(※)では、椎根津彦を引き入れたのち、菟狭で歓待され、11月に筑紫岡水門に着き、12月から安芸埃宮に滞在、翌年3月から吉備高嶋宮に3年滞在して、難波の奔潮を通過する。
古事記(※)では、宇沙で歓待され、筑紫岡田宮に1年滞在、阿岐多祁理宮に7年滞在、それから吉備高嶋宮に8年滞在して、椎根津彦を引き入れたのち、浪速の渡りを通過する。

五斗長垣内遺跡(淡路島)が2世紀の遺跡と目されることから、瀬戸内航路が開かれたのは1世紀末か2世紀初頭頃だろう。

崇神[10]紀と垂仁[11]紀に記される椎根津彦6世孫の市磯長尾市を基準に世代を数えると、椎根津彦は懿徳[4]か孝昭[5]の世代になる。
椎根津彦の叔父/伯父の天前玉の子が高倉下(※)で、同世代である。

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Wikipedia倭国造」より抜粋・転写

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Wikipedia尾張氏」より抜粋・転写

神武東征は無かった。
だが懿徳[4]か孝昭[5]の頃、天火明に例えられる尾張氏の祖先と大彦の祖先が淡路島に住みついた。

孝昭[5]の皇后が尾張氏出身の世襲足姫であることから橿原勢は、入植したばかりの九州勢を友好的に受け入れたと考えられる。
一方、饒速日勢は敵対したと考えられるが、九州勢に対してだけなのか、もともと橿原勢と対立していたのかは分からない。欝色謎が孝元[8]の皇后になっているので、孝霊[7]か孝元[8]の頃に九州勢を受け入れたと推測する。

大阪平野抵抗勢力が居たこと、淡路島に遺跡があることから、淡路島が瀬戸内航路の東端であり、大彦の氏族は淡路島に居たと推測する。
つまり、九州勢が明石海峡を通る必要はなかった。

古事記では、吉備国を出航したのちに椎根津彦が道案内として加わる。
だが終着地が淡路島であり、明石海峡を通らないとなると、道案内が必要だったとは思えない。

日本書紀では、日向国を出立したのちに豊予海峡椎根津彦が加わる。こちらは瀬戸内航路全域を道案内したことになる。だが九州から来たのであれば、椎根津彦も天火明の条件を満たしてしまう。(前回記事:天火明は瀬戸内航路の開通まもなく入植した九州人を指す

椎根津彦が道案内したというのは暗示であり、史実ではないだろう。
おそらく、淡路島に入植していた九州勢が、大和と積極的に関わるようになった原因を、椎根津彦の氏族が持ち込んだことを示している。
椎根津彦の働きかけで、淡路島の九州勢が大阪平野に入った。

大和と良好な関係を築いた九州勢は、淀川を北上して、越前で神逐を行った。
椎根津彦の氏族が、越前から出雲勢を追い払うように立ち回ったのだろう。よって椎根津彦は、日本海航路が不穏になったことで不利益を被った氏族と考えられる。

神逐で追い払われた素戔嗚は出雲へ行った。
それで一旦は落ち着いたのだから椎根津彦の氏族は、山陰沿岸を通る航路から瀬戸内を通る航路に切り替えても利益を得られたと思われる。
よって椎根津彦の活動域は中部日本海沿岸地域が想定できる。

椎根津彦の本拠地は久比岐だろう。

椎根津彦の氏族の一部が久比岐から、大彦の妻になった久比岐の女性(倭迹々姫)を伴って近畿に移り住んだ。そして倭国造に任じられたと推測する。

椎根津彦の後裔には、倭国造と久比岐国造と明石国造が(※)いる。
最も古い任命は神武[1]朝の倭国造で、次いで崇神[10]朝の久比岐国造、応神[15]朝の明石国造の順だ。

だが、繰り返すが神武東征は無かった。
磐余彦(神武)なる個人は存在せず、安寧[3]以降の橿原勢が行った近畿平定の事跡と、九州から入植した氏族である大彦の事跡を合わせて創作した架空の人物であると、当ブログは考える。

椎根津彦の氏族を倭国造に任じたのは、おそらく大彦だろう。大彦は開化[9]世代だ。
最初の倭国造は、4世孫の飯手足尼と推測する。
だから3世孫までは付かない「スクネ(足尼・宿祢)」の官名が、4世孫以降には付くのではなかろうか?

大彦は九州系氏族だから、九州の利害を考えて行動したはずだ。当時の倭国造とは、大阪平野に滞在する九州勢の外交官的存在だったのではないかと思う。
背後で大彦が睨みを利かせていたから、大和は受け入れざるを得なかったのだろう。

そして6世孫の御戈が久比岐国造に任じられる。
任命したのは大彦か武渟川別か、それとも崇神[10]か。崇神[10]は、大彦と久比岐の女性(倭迹々姫)の娘であろう御間城姫を皇后にしている。崇神に久比岐をどうこうする権限は無くとも、皇后には有ったかもしれない。

個人的見解だが。
余所者に大きな顔をさせてやるほど古代の久比岐人がお人好しの集団だったとは思わない。御戈が久比岐出身氏族でなければ受け入れられなかったはずだ。

その点、8世孫の都弥自宿祢が明石国造に任命されたのは応神[15]の御代だ。
俗に、三代住み続けないと京都人ではないという。4世孫から近畿に住んでいるのだから、8世孫は立派な近畿人と云えよう。