天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

鳥は海神族、鹿は丹波勢

古事記の神語歌前半、八千戈が奴奈川姫に求婚(脅し)する逸話で、奴奈川姫は自分を浦渚の鳥に例える。また、八千戈が鵺、雉、鶏に例えているのは奴奈川姫の集落(久比岐)の人々だろう。

奴奈川姫の久比岐は椎根津彦(珍彦)のルーツだ。
よって、鳥は海神族の象徴と推定する。

そのほか。
日本書紀に登場する隼人第一号は履中紀の刺領巾だ。
履中[17]は5世紀前期の人物と考えられ、2世代前の4世紀中期に景行[12]が日向高屋宮にて御刀媛とのあいだに豊国別を儲けている。

天孫降臨の瓊瓊杵=景行[12]
鹿葦津姫=御刀媛・日向髪長大田根
山幸(彦火火出見)=豊国別(日向国造)
海幸(火闌降)=日向襲津彦(阿武国造)=仲哀[14]

※ 仲哀の穴門豊浦宮は山口県下関市、阿武国は山口県阿武郡と萩市

彦火火出見は、海神族の豊玉姫とのあいだに鸕鶿草葺不合を儲ける。
つまり、日向の首長氏族に海神族の血が混じる。これが4世紀後期のこと。

日向勢を、5世紀前期頃(履中紀)から隼人と呼ぶ。それ以前は熊襲と呼ぶ。
海神族の血を取り入れたから、鳥(ハヤブサ)を名乗ったのだろう。

つぎに鹿。
鹿は、いかにも含蓄のありそうな抽象的な逸話に多く登場する。よって、ヤマト建国に重要な役割を果たした勢力を象徴すると考えられる。
とすれば、候補はおのずと丹波か山陰に絞れるだろう。

私の推測では、丹波が鹿だ。
丹波だったら面白くなるので、丹波であれと思っている。

日本書紀の応神十三年、応神[15]は、日向髪長媛と大鷦鷯(仁徳[16])の相愛を知って下賜する。これに付随する一云。

応神紀 十三年 一云
時 天皇 幸淡路嶋 而 遊猟之 於是 天皇西望之 数十麋鹿 浮海来之 便入于播磨鹿子水門 天皇謂左右曰 其何麋鹿也 泛巨海多来 爰 左右共視而奇 則遣使令察 使者至見 皆人也 唯 以著角鹿皮 為衣服耳 問曰 誰人也 対曰 諸縣君牛 是年耆之 雖致仕 不得忘朝 故 以己女髮長媛 而 貢上矣 天皇悦之 即喚令従御船

時 天皇 淡路嶋に幸する 而 遊猟する之 於是 天皇は西望する之 数十の麋鹿(びろく、大鹿と鹿) 海に浮き来る之 便ち播磨鹿子水門に入る 天皇は左右に謂い曰く 其れ何の麋鹿也 巨海に泛(う)き多く来る 爰に 左右が共に視て奇(あや)しむ 則ち使いを遣わし察せ令める 使者が見るに至る 皆が人也 唯 角鹿の皮を以て著(着)る 衣服と為すのみ 問い曰く 誰人也 対し曰く 諸縣君牛 是年は耆(老)いる之 致仕(ちし、官職を退く)と雖も 朝を忘れ得ず 故 己の女の髪長媛を以て 而 貢ぎ上げる矣 天皇は之を悦ぶ 即ち喚んで御船に従わ令める

日向諸縣君牛が角鹿の皮を着て応神[15]に接近し、娘の髪長媛を差し上げた。
諸縣君牛は鹿を装ってるけれども、鹿じゃない。名前からして牛。

日向国といえば天孫降臨神話。
降臨した瓊瓊杵の正体は、丹波国の日葉酢媛が生んだ景行[12]だ。
つまり瓊瓊杵は丹波勢である。
丹波が鹿ならば日向勢も、記紀神話の設定では鹿の系譜のはずだが。

丹波勢を象徴する鹿に擬態する牛が、日向諸縣君である。
と、応神紀十三年の一云は言っている。

景行は「夫天皇之男女 前後幷八十子」の子沢山だ。
当時は一夫多妻なので不可能ではないだろうが、常識的に考察するならば、複数人の景行[12]が存在する可能性を視野に入れるべきだろう。日葉酢媛の子を中骨に、他所へ移住した数十人の丹波出身者で肉付けして創作した架空の個人が、景行[12]という存在ではないのか。

日向国に移住した丹波人が、日葉酢媛の子ではない可能性は十分にある。
この一云の主旨は「日向はヤマトの大王の血筋じゃない」と告発することにあるのではなかろうか。

それから。
世間には、こちらのほうが説得力があるかもしれない。

日向諸縣君牛が着ていたのは「角鹿」の皮であり、現・福井県敦賀市のあたりが角鹿国だった。
似ている国名に、現・山口県周南市あたりの都怒国があるのだが、しかし垂仁紀二年の一云が、山陰説を否定する根拠になるだろう。

先代旧事本紀 巻第十 国造本紀
角鹿国造
志賀高穴穂朝(成務)御世 吉備臣祖若武彦命 孫建功狭日命 定賜国造
都怒国造
難波高津朝 紀臣同祖都怒足尼 兒田鳥足尼 定賜国造
日本書紀 垂仁天皇二年
一云 御間城天皇之世 額有角人 乗一船 泊于越国笥飯浦 故 號其処曰角鹿也 問之曰 何国人也 対曰 意富加羅国王之子 名 都怒我阿羅斯等 亦名曰 于斯岐阿利叱智于岐 伝聞 日本国有聖皇 以帰化之 到于穴門 時 其国有人 名伊都々比古 謂臣曰 吾則是国王也 除吾復無二王 故 勿往他処 然 臣究見其為人 必知非王也

一に云う 御間城天皇の世 額に角有る人 一船に乗り 越国の笥飯浦に泊まる 故 其処の號は曰く角鹿也 之を問い曰く 何れの国人也 対し曰く 意富加羅(大加耶)国王の子 名は都怒我阿羅斯等 亦の名は曰く于斯岐阿利叱智于岐 伝え聞く 日本国に聖皇有り 以て帰化する之 穴門に到る 時 其の国に人有り 名は伊都々比古 臣に謂い曰く 吾は則ち是の国の王也 吾を除き復た二王無し 故 他処へ往く勿れ 然 臣は究めて其の為人を見る 必ず王に非ずを知る也

丹波国越前国若狭湾を挟んで東西に位置する。
穴門国と都怒国は中国地方の西端に隣接している。

都怒我阿羅斯等が、穴門の王を否定して越前国へ行き、崇神[10]に仕える。
この逸話は、丹波を含む越前周辺の勢力が「鹿」であることの示唆ではないだろうか。

小倉百人一首 7番 阿倍仲麻呂が詠んだ月

小倉百人一首は歴史の教科書だ。
と、聞いたことがある。何年か前にはネットでも記事を読んだ。と、思う。
たぶん。

それで以前、阿倍仲麻呂の歌を考察した。
だが今になって、結論が間違っていたと考えている。

小倉百人一首 7番 阿倍仲麻呂
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出(い)でし月かも

【当ブログの解釈】
あまのはら
 →高天原(海人の原) →神々の時代(寿命が長い仁徳[16]まで)
ふりさけみれば
 →振り裂けみれば →振り裂けるように終わってみれば
かすが
 →春日和珥氏(忍熊王討伐・両面宿儺討伐を行った和珥武振熊の子孫)
なる
 →成る →成りあがる
みかさのやまにいでしつき
 →三笠山奈良盆地の北東。のち768年に春日大社が西麓に造営)に出る月

和珥武振熊の子である米餅搗大使主は、もとの名を「中臣佐久」という。
と、阿波国風土記が記すので、以前は和珥氏を疑っていたが、今は続風土記の記述を疑っている。

春日大社の祭神は、武甕槌・経津主・天兒屋・比売神
比売神の正体は和珥氏の后妃、雄略[21]妃の春日和珥童女君・仁賢[24]皇后の春日大娘皇女・安閑[27]皇后の春日山田皇女だろう。
そもそも春日大社の名称の由来は、春日を名前に含む彼女たちではなかろうか?

春日和珥氏の后妃

阿波国風土記が編纂された明治初期、春日大社比売神が和珥氏の女性たちと知っていたから、中臣氏と和珥氏に濃い縁があると想像したのではないか?

明治神道は伊勢中臣氏を中核に据えている。
故意に、中臣氏がより良くみえるように小細工した可能性もあると思う。

推測するに。
もとから和珥氏の后妃を祀っていた三笠山を、春日大社造営した768年当時の有力氏族である藤原氏が祀るようになり、中臣氏由来の武甕槌・天兒屋を祭神に加え、さらに国譲り神話で武甕槌と組んでいる経津主も加えたのではないか?

事情は知らないが、和珥氏の三笠山藤原氏が入り込んだ。
阿倍仲麻呂の歌にある「三笠の山に出でし月」は、藤原氏と中臣氏の比喩だろう。

月神は月読である。
第五段(神生み)一書第六に「月読尊者 可以治滄海原潮之八百重也」とある。月と潮流の関係が反映された神話であり、瀬戸内の潮流は無視できない。

日向国から瀬戸内を通って東征した神武[1]は允恭[19]であり、このとき既にヤマトには政治があった。つまり建国の功を立てるには、日向勢は完全に出遅れた。天孫降臨と海幸山幸は、ヤマト建国に関われなかった日向勢を、建国最大の功労者として偽るために挿入された逸話であり、同じ目的で神武[1]と崇神[10]を創作している。とくに崇神[10]は、本来の最大功労者である大彦を格下げする役割を担っている。

偽りの歴史を定着させるには、長く権力者として君臨してなければなるまい。それは藤原氏および中臣氏しかいない。日向勢の允恭[19]を虚飾する嘘は、藤原氏と中臣氏にとって都合が良いのだろう。

おそらく中臣氏は、允恭[19]とともに近畿へ行き、紀伊半島をまわって丹敷戸畔を殺害したのち、伊勢津彦を立ち退かせて伊勢国に居座った。しかし、允恭の後継者である木梨軽皇子は失脚して、一説には伊予国へ流される。允恭の東征はヤマトの中核に届かず、撤退を余儀なくされたのだろう。

この仮説は、乙巳の変(645年)以前の中臣氏が、貴族としては中流以下だったことと矛盾しない。

そして、日向勢の允恭[19]と行動を共にした中臣氏のルーツにうってつけの地域がある。先代旧事本紀巻第十の国造本紀にある波多国造(土佐国西部、崇神朝)だ。

先代旧事本紀 巻第十 国造本紀
波多国造
瑞籬朝御世 天韓襲命 依神教云 定賜国造

神武朝と崇神朝に任命された国造はどれも建国神話への関与が伺えるのだが、波多国造だけが例外だ。だがそれも、中臣氏のルーツならば納得だ。
建国神話への関与が伺えないのは事実、関与してないからだろう。

そして波多国が中臣氏のルーツなら。 藤原氏が「三笠の山に出でし月」に例えられたのだから、月読は四国西部の神と考えていいだろう。

四国には古事記由来の地名が多いというが、古事記編纂以後の中臣氏の仕業では? 長く権力を握っていれば、地名を変えることなど容易かろう。