天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第八章 綏靖、並びに欠史八代

前回の要点:
天稚彦=兄磯城=彦湯支。味耜高彦根=弟磯城=味饒田。
神武(淡路)と椎根津彦(久比岐)が共闘して兄磯城を挟み撃ちにする。丹波大己貴の国譲りとは、このとき淡路・久比岐との対立を避けて素通りさせたこと。
淡路勢と対立する長髄彦は葦原醜男と須世理毘売の子孫。
淡路 vs.畿内の主戦場は和歌山平野

媛蹈韛五十鈴媛

神武は橿原に宮を造営したのち高貴な女性を求める。進言を受けて媛蹈韛五十鈴媛を正妃に迎え、自身の天皇即位にあわせ皇后とする。

媛蹈韛五十鈴媛の父には大物主説と事代主説があり、神代上第八段(八岐大蛇)一書第六は双方の説を記す。大物主にしろ事代主にしろ越前素戔嗚の系譜なので、この違いにこだわる必要はないだろう。

このエピソードに該当する神武は大彦である。
淡路勢を含む瀬戸内勢が国見岳八十梟帥を討伐して、淡路の大彦が久比岐青海氏の女性を娶り武渟川別を儲けた。

久比岐青海氏祖の椎根津彦を祀る越後加茂の青海神社は、794年から京都の賀茂神社の分霊も併せ祀る。記紀が記す媛蹈韛五十鈴媛の誕生譚が、賀茂神社に祀られる賀茂健角身と玉依比売の逸話をもとにした創作だからだろう。

神代上第八段 八岐大蛇 一書第六
事代主神 化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姬 或云玉櫛姬 而 生兒姬蹈鞴五十鈴姬命 是爲神日本磐余彥火火出見天皇之后也

事代主神 八尋の熊鰐(くまわに)に化け為る 三嶋溝樴姫と通じる 或いは玉櫛姫と云う 而 生む子は姫蹈鞴五十鈴姫命 是は神日本磐余彦火火出見天皇の后と為る也

倭氏

倭氏は、大彦の妻とともに久比岐から近畿へ移住した久比岐青海氏の分家と考える。

系図では椎根津彦五世孫(飯手足尼)以降にスクネが付いているので、近畿入りはこの頃だろう。垂仁[11]紀に名前がある市磯長尾市から世代数を数えると、飯手足尼は大彦と同世代だ。

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Wikipedia倭国造」より抜粋・転写

先代旧事本紀巻十の国造本紀は、神武[1]朝に椎根津彦を大倭国造に定めたと記し、崇神[10]朝には椎根津彦の後裔を久比岐国造に、神八井耳(神武皇子)の後裔を科野国造・火国造に任命したと記す。
ここでも久比岐・科野と北九州のつながりを見て取れる。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
倭国
橿原朝(神武)御世 以椎根津彦命 初為大倭國造
久比岐國造
瑞籬朝(崇神)御世 大和県同祖御戈命 定賜國造
科野國造
瑞籬朝(崇神)御世 神八井耳命 孫建五百建命 定賜國造
火國造
瑞籬朝 大分國造同祖志貴多奈彦命 兒遅男江命 定賜國造

第二代綏靖天皇

神武崩御後、媛蹈韛五十鈴媛が生んだ二皇子(神八井耳と神渟名川耳)は、日向国吾平津媛が生んだ皇子(手硏耳)が二皇子を害するつもりと知り、先手を打って手硏耳を襲撃する。このとき臆病風に吹かれ殺傷できなかった神八井耳は、代わって遂行した神渟名川耳を称えて皇位を勧め、神渟名川耳が即位する(綏靖[2])。
事績が無いと云われる欠史八代紀に記される唯一のエピソードだ。

神武東征は饒速日勢と淡路勢の事績を組み合わせた創作であり、国見岳八十梟帥以降の神武は大彦なので、神八井耳と神渟名川耳(綏靖)は大彦の子となる。
神渟名川耳は名前にヌナカワを含むことから、武渟川別と同一だろう。

先代旧事本紀巻十の国造本紀は、成務[13]朝に大彦の後裔を筑紫国造・高志国造に任命したと記す。
ここでも久比岐・科野と北九州のつながりを見て取れる。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
髙志國造
志賀髙穴穂朝(成務)御世 阿閇臣祖屋主思心命 三世孫市入命 定賜國造
筑志國造
志賀髙穴穂朝御世 阿倍臣同祖大彦命 五世孫田道命 定賜國造

また、崇神[10]朝に「道君同祖」素都乃奈美留を高志深江国造に、仁徳[16]朝に「能登國造同祖」素都乃奈美留を加宜国造に任命したとあり、同名だが世代が違うのでいずれかの誤りと見られている。

道君は阿倍氏の同族で、阿倍氏は大彦の後裔(筑志國造に明記)だ。
また活目帝は垂仁(和風諡号が活目入彦五十狹茅)のことだ。
大彦は神武と同一であり、垂仁の祖父にあたる。
よって世代の記述が誤っているだけで、素都乃奈美留は同一人物と考える。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
高志深江國造
瑞籬朝(崇神)御世 道君同祖素都乃奈美留命 定賜國造
加宜國造
難波立津朝(仁徳)御世 能登國造同祖素都乃奈美留命 定賜國造
能等國造
志賀髙穴穂朝(成務)御世 活目帝皇子大入来命 孫彦狭島命 定賜國造

なお紛らわしいが上毛野国造も彦狭島とあり、能等国造と同名だ。上毛野のほうは垂仁の異母兄/弟である豊城入彦の孫なので、この彦狭島は別人と考える。

ただし、大入来は日本書紀に登場しない。
先代旧事本紀でも巻七天皇本紀に記載はなく、巻十国造本紀の能登国造が記すのみだ。古事記は、尾張大海媛が生んだ崇神[10]皇子と記す。

尾張大海媛は日本書紀先代旧事本紀巻七の天皇本紀でも崇神妃になっており、淳名城入姫らを生む。淳名城入姫は崇神紀と垂仁紀に、倭大国魂の祭主に選ばれたが体調を崩し祀れなかったと記される。

饒速日

神渟名川耳(綏靖)が淡路勢の系統なら、手硏耳は饒速日勢の系統だろう。
一説に、饒速日伊勢津彦であると云う。

Wikipedia 伊勢津彦 2021年7月転写
同説ではその他別名(櫛玉命)や世代関係(神武一世代前)など諸要素からも伊勢津彦神こそ邇芸速日命と同神とされ、東国へ逃亡したのは実際は伊勢津彦神の子に当たる神狭命とされる。

伊勢国風土記逸文が記す伊勢津彦は、神武の勅名を受けた天日別に「汝國獻於天孫哉(汝の国は天孫に献じる哉)」と問われて断るが、天日別が兵を整えたので恐れて「吾國悉獻於天孫(吾の国は悉く天孫に献じる)」と告げた。その夜、大風を起こし海を波立て日のように光りながら東へ去った。

小文字で「近令住信濃國(近く信濃国に住ま令める)」とある。
松本盆地南部には三世紀末の築造と目される弘法山古墳前方後方墳)がある。前方後方墳の発祥は伊勢湾沿岸と考えられている。

岩波文庫 風土記 昭和12出版 上記デジタル書籍より文字起こし
伊勢國風土記云 夫伊勢國者 天御中主尊之十二世孫 天日別命 神倭磐余彥天皇 自彼西宮征此東州之時 随天皇 到紀伊國熊野村 于時 随金鳥之導 入中州而到於菟田下縣 天皇 勅大部日臣命曰 逆黨駒長髄 宜早征罰 廼亦 詔勅天日別命曰 國有天津之方 宜平其國 卽賜標劒 天日別命 奉勅 東入數百里 其邑有神 名曰伊勢津彦 天日別命問曰 汝國獻於天孫哉 答云 吾覓此國 居住日久 不敢聞命矣 天日別命 發兵欲戮其神 于時畏伏啓云 吾國悉獻於天孫 吾敢不居矣 天日別命令問云 汝之去時 何以爲驗 啓曰 吾以今夜 起八風吹海水 乘波浪將東入 此則吾之却由也 天日別命整兵窺之 此及中夜 大風四起 扇擧波瀾 光耀如日 陸國海共朗 遂乘波而東焉 古語云神風伊勢國常世浪寄國者 蓋此謂之也 伊勢津彦神 近令住信濃國 天日別命 懐築此國 復命天皇 天皇大歡 詔曰國宜取國神之名號伊勢 卽爲天日別命之村此國 賜宅地于大倭耳梨之村焉 或本云 天日別命 奉詔 自熊野村直入伊勢國 殺戮荒神 罰平不遵堺山川 定地邑 然後 復命橿原宮

(訳文:上記の岩波文庫風土記」のコマ番号144/291)

神渟名川耳のエピソードと天日別のエピソードは、饒速日勢を畿内から排除したという点で共通する。
しかし既に恭順した饒速日を淡路勢が排除する理由が無い。しかも逃亡先が久比岐と関係が深い科野・洲羽ときては、違和感しかない。

どちらも、同じ出来事を元にした虚偽の作り話ではなかろうか。記紀神話には饒速日勢を矮小化させたい意向が働いているように思う。

天日別は伊勢中臣氏の祖だ。そして、物部氏石上神宮で祀る韴霊剱を武甕槌の所有物とする記述が神武紀にあるが、杵築大己貴の国譲りの主力は経津主のほうであろうと、国譲り神話の章で述べた。武甕槌は、中臣氏から分立した藤原氏が、大和の春日大社で経津主や祖神の天兒屋とともに祀る。
意向が誰のものかは言うまでもなかろう。

神武[1]紀戊午年 夏 六月乙未朔丁巳
天照大神謂武甕雷神曰 夫葦原中國猶聞喧擾之響焉 聞喧擾之響焉 此云左揶霓利奈離 宜汝更往而征之 武甕雷神對曰 雖予不行 而 下予平國之劒 則國將自平矣 天照大神曰 諾

天照大神は武甕雷神に謂い曰く 夫れ葦原中国に猶も喧擾(けんじょう、騒がしい)の響きを聞く焉 聞喧擾之響焉 此れ云う左揶霓利奈離 汝が更に往きて之を征するが宜しい 武甕雷神は対し曰く 予が行かずと雖も 而 予が国を平らぐ之剱を下す 則ち国は将に自ずと平がん矣 天照大神は曰く 諾

欠史八代

大彦が初代神武天皇であり、武渟川別が第二代綏靖天皇と考える。そして第三代から第九代までは、初代神武の血統ではないと考える。しかし無意味な名前を並べたわけではないだろう。
和風諡号に含まれるキーワードから連想される人物を以下に記す。

第三代安寧天皇 磯城津彦玉手看天皇
磯城」から、弟磯城(味耜高彦根
第四代懿德天皇 大日本彦耜友天皇
「耜」の「友」から、天稚彦(兄磯城
第五代孝昭天皇 觀松彦香殖稲天皇
「観松彦」を名前に含む「観松彦色止」が後裔にいることから、事代主
第六代孝安天皇 日本足彦國押人天皇
「国押」が「国牽」と対になることから、天穂日(火明)
第七代孝霊天皇 大日本根子彦太瓊天皇
「太瓊」が勾玉でムジナの腹から八尺瓊勾玉が出たエピソードから、丹波大己貴
第八代孝元天皇 大日本根子彦國牽天皇
「国」を「牽く」で国引き神話から、杵築大己貴
第九代開化天皇 稚日本根子彦大日々天皇
「日々」から、饒速日伊勢津彦

三代から九代までは皇統の血筋ではないものの、ヤマト建国神話の主役級といえる重要人物が並んでいる。

孝霊[7]について補足

ムジナの腹から八尺瓊勾玉が出たエピソードは垂仁紀にある。

垂仁[11]紀八十七年春二月丁亥朔辛卯 昔
昔 丹波國桑田村有人 名曰甕襲 則甕襲家有犬 名曰足往 是犬 咋山獸名牟士那 而 殺之 則獸腹有八尺瓊勾玉 因以獻之 是玉 今有石上神宮也

昔 丹波国桑田村に人有り 名は曰く甕襲 則ち甕襲家に犬有り 名は曰く足往 是犬 牟士那なる名の山獸に咋える 而 之を殺す 則ち獸の腹に八尺瓊勾玉有り 因て以て之を献じる 是玉 今は石上神宮に有る也

孝昭[5]について補足

観松彦色止は、別名に天八現津彦などがある。

孝昭(觀松彦香殖稲)の皇后は尾張氏祖の世襲足媛であり、尾張氏祖の高倉下は越中東部の海人族だ。
また、観松彦色止の祖である事代主は越前素戔嗚(八千矛)の子孫だ。

越前には四隅突出墳の小羽山30号墓があり、越中婦負郡にも杉谷4号墳などが確認されている。2021年7月時点で北陸の四隅突出墳はこの二地域のみ。

山陰から導入された墓制だが、小羽山より婦負郡のほうが独自色が強いとの指摘がある。山陰から小羽山、小羽山から婦負郡へ伝播したのではなかろうか。

6332_2_富山県婦中町千坊山遺跡群試掘調査報告書 :2/37(109ページ)
受容当初は、福井県では山陰の強い影響が窺えるが、千坊山遺跡群では影響を受けつつも伝統的な周溝墓の形態を踏襲した四隅を掘り残すタイプとして受容しており、当初から在地的様相を強く持つものであった。
現段階資料では北陸内部での四隅突出型墳丘墓をシンボルとする首長連合は形成されておらず山陰対北陸一地域の首長間交流にとどまる。地域首長の対外的政治方策の最善の後ろ盾として造営され、それゆえに単発的であり北陸伝統の埋葬習俗を改変することなく墳形のみが強調されたと分析している(前田1995)。

孝安[6]について補足

和風諡号に「国押」を含む天皇は孝安[6]のほかに、安閑[27]と宣化[28]がいる。
安閑「広国押武金日天皇」と宣化「武小広国押盾天皇」は同腹の兄弟で、父は継体[26]、母は尾張目子媛であり、孝安[6]の母は尾張世襲足媛

先代旧事本紀巻第五の天孫本紀は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日の兒である天香語山の子孫の建田背(六世孫)が、神服連・海部直・丹波国造・但馬国造等の祖と記す。 尾張国造は建田背の弟である建宇那比の子孫にあたる。

先代旧事本紀巻第十の国造本紀は尾張国造の同祖に、斐陀国造と丹後国造を記す。
そして丹後一宮籠神社社家、海部氏系図の始祖は彦火明である。

また出雲国造に記す天穂日の十一世孫宇迦都久怒は、崇神[10]紀の逸話にみえる出雲振根の甥である鸕濡渟の表記揺れと考えられている。
日本書紀神代下の第九段(国譲り)の一書第二では高皇産霊が、天穂日に大己貴を祀らせることを約束している。

以上のことから、天穂日と火明は近似の意味を持つ存在と考えられる。
もしかすると《同一》と云えるかもしれない。

尾張国造
 志賀高穴穂朝(成務) 以天別天火明命 十世孫小止与尊 定賜国造
斐陀国造
 志賀高穴穂朝御世。尾張連祖瀛津世襲命 _大八椅命 定賜国造
丹波国
 志賀高穴穂朝(成務)御世 尾張同祖建稲種命 四世孫大倉岐命 定賜国造
丹後国
 諾良朝(元明)御世 和銅六年 割丹波國置丹後國
但遅麻国造
 志賀高穴穂朝御世 竹野君同祖彦坐王 五世孫船穂足尼 定賜国造
出雲国造
 瑞籬朝(崇神) 以天穂日命 十一世孫宇迦都久怒 定賜国造

建国神話第七章 畿内平定

前回の要点:
国譲りの大己貴は、本伝は丹波大己貴、一書第二は杵築大己貴のこと。
共通して登場する天穂日および経津主と武甕槌は杵築大己貴の国譲りに関与した。丹波大己貴の国譲りには関与してないが、本伝にも登場させることで二勢力の大己貴を同一存在であるかのように偽装した。
建御名方は杵築大己貴の子ではない。
古事記が記す建御名方と武甕槌の勝負は、大己貴の国譲りとは一切関係ない関東で起きた抗争が元になっている。

味饒田と彦湯支

自宅へ来訪して鳴く使者の鳥に矢を撃つエピソードの類似性から、天稚彦と兄磯城は同一と推測する。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 本伝
於是 高皇産靈尊 賜天稚彥天鹿兒弓及天羽羽矢 以遣之 此神亦不忠誠也 來到 即娶顯國玉之女子下照姬 亦名高姬 亦名稚國玉 因留住之曰 吾亦欲馭葦原中國 遂不復命 是時 高皇産靈尊 怪其久不來報 乃遣無名雉伺之 其雉飛降止 於天稚彥門前所植 植 此云多底婁 湯津杜木之杪 杜木 此云可豆邏也 時 天探女 天探女 此云阿麻能左愚謎 見而謂天稚彥曰 奇鳥來 居杜杪 天稚彥 乃取高皇産靈尊所賜天鹿兒弓天羽羽矢 射雉 斃之 其矢 洞達雉胸 而 至高皇産靈尊之座前也 時 高皇産靈尊見其矢曰 是矢 則昔我賜天稚彥之矢也 血染其矢 蓋 與國神相戰而然歟 於是 取矢還投下之 其矢落下 則中天稚彥之胸上 于時 天稚彥 新嘗休臥 之時也 中矢立死 此世人所謂反矢 可畏之緣也

於是 高皇産霊尊 天稚彦に天鹿兒弓及び天羽羽矢を賜る 以て之に遣わす 此の神も亦た不忠誠也 来て到る 即ち顕国玉の女子の下照姫を娶る 亦の名は高姫 亦の名は稚國玉 因て留まり之に住み曰く 吾も亦た葦原中国を馭(統)べるを欲する 遂に復命せず 是時 高皇産霊尊 久しく報せの来ぬ其れを怪しむ 乃ち無名雉(ナナシキジ)を遣わし之を伺う 其の雉は飛び降り止まる 天稚彦の門前の所に植わる 植 此れ云う多底婁 湯津杜木(桂の木)の杪(こずえ、梢)に 杜木 此れ云う可豆邏也 時 天探女 天探女 此れ云う阿麻能左愚謎 見て天稚彦に謂い曰く 奇鳥が来た 杜(桂)の杪(梢)に居る 天稚彦 乃ち高皇産霊尊が賜わる所の天鹿兒弓と天羽羽矢を取る 雉を射る 之を斃す 其の矢 雉の胸を洞(つらぬ)き達する 而 高皇産霊尊の座前に至る也 時 高皇産霊尊は其の矢を見て曰く 是の矢 則ち昔に我が天稚彦に賜う之矢也 血に染まる其の矢 蓋 国つ神と相い戦いて然る歟 於是 取りし矢を還し投下する之 其の矢が落下する 則ち天稚彦の胸上に中る 于時 天稚彦 新嘗(にいなめ)し休み臥せる 之の時也 矢に中り立(タチトコロ)に死ぬ 此れ世人の謂う所の反矢(かえしや) 畏る可き之の縁也

神武[1]紀戊午年 冬 十有一月癸亥朔巳己
皇師大舉將攻磯城彥 先遣使者 徵兄磯城 兄磯城不承命 更遺頭八咫烏召之 時 烏到其營 而 鳴之曰 天神子召汝 怡奘過 怡奘過 過 音倭 兄磯城忿之曰 聞天壓神至 而 吾爲慨憤 時 奈何 烏鳥若此惡鳴耶 壓 此云飫蒭 乃彎弓射之 烏即避去

皇師(皇軍)は将に磯城彦を攻めんと大挙する 先ず使者を遣わし 兄磯城を徵(め)す 兄磯城は命を承けず 更に頭八咫烏を遺わし之を召す 時 烏は其の営に到る 而 之を鳴き曰く 天神の子が汝を召す 怡奘過(いざわ) 怡奘過 過 音倭 兄磯城は之に忿(いか)り曰く 天の壓(屈服させる)神が至るを聞く 而 吾は憤慨を為す 時 奈何(いかん) 烏鳥は此の若く悪しく鳴く耶 壓 此れ云う飫蒭 乃ち弓を彎(ひ)き之を射る 烏は即ち避け去る

物語として、天稚彦に次ぐ重要人物は味耜高彦根であり、兄磯城に次ぐ重要人物は弟磯城だ。しかし味耜高彦根と弟磯城に類似性はない。

味耜高彦根天稚彦の友人であり、容姿が天稚彦に似ていた。天稚彦の葬儀に弔問したところ遺族に故人と間違われて腹を立て、喪屋を破壊する。
磯城は、兄磯城の次に八咫烏の訪問を受けて神武の召喚に応じ、その場で兄磯城の謀略を密告する。

しかし先代旧事本紀巻五の天孫本紀が記す物部氏の祖には、味耜高彦根と同じ意味を持つと推測される名前「味饒田」があり、その弟である「彦湯支」は出雲色多利姫とのあいだに一男を儲けたとある。名前から推測して子は出雲醜大臣だろう。

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先代旧事本紀天孫本紀 宇摩志麻遅から饒速日七世孫伊香色雄まで系図起こし

天孫本紀の饒速日を祖とする系図の序盤は、天香山と宇摩志麻遅を異母兄弟に設定していることからして真実味が薄い。この系図は、神武以前の畿内に存在した有力氏族を多く取り込んでいると考える。よって味饒田と彦湯支も、近畿地方の有力氏族と推測する。

出雲を名前に含む妻子をもつ彦湯支(弟)が、天稚彦であり兄磯城だろう。
そして同じ意味の名前を持つ味饒田(兄)が、味耜高彦根であり弟磯城だろう。

また、この系図には「シコ(醜、色)」を含む五つの名前、出雲醜大臣、鬱色雄、鬱色謎、伊香色雄、伊香色謎がある。この系図のなかに葦原醜男が存在する可能性があると考える。
神代上第八段(八岐大蛇)一書第六で大国主の別名のひとつとされる葦原醜男は、古事記によれば素戔嗚の娘である須世理毘売を妻にした。

忍坂

神武(淡路勢)が弟磯城に兄磯城を説得させるも成果は上がらず、武力制圧に意見が傾いていた。そこへ椎根津彦が共闘を申し出る。

神武[1]紀戊午年 冬 十有一月癸亥朔巳己
乃使弟磯城開示利害 而 兄磯城等猶守愚謀 不肯承伏 時 椎根津彥 計之曰 今者宜先遣我女軍 出自忍坂 道虜見之 必盡鋭而赴 吾則駈馳勁卒 直指墨坂 取菟田川水 以灌其炭火 儵忽之間 出其不意 則破之必也 天皇善其策 乃出女軍 以臨之 虜謂大兵已至 畢力相待

乃ち弟磯城に利害を開示せ使める 而 兄磯城等は猶も愚謀を守る 肯(うなず)きも承伏もせず 時 椎根津彦 之を計り曰く 今は先ず我を女軍に遣わすが宜しい 忍坂より出る 道の虜(敵)は之を見る 必ず盡(ことごと)く鋭くして赴く 吾は則ち勁(つよ)い卒で駆け馳せる 直ぐ墨坂を指す 菟田川の水を取る 以て其の炭火に灌ぐ 儵忽(しゅっこつ、短時間)の間 不意に其れへ出る 則ち之を破るは必ず也 天皇は其の策を善しとする 乃ち女軍に出る 以て之に臨む 虜(敵)は大兵が已に至ると謂(おも)う 畢力(全力)が相待する 【要注意:女軍の解釈が異なる説が主流】

「出自忍坂(忍坂より出る)」と言うのだから、このとき椎根津彦は忍坂にいたと考えられる。忍坂邑は、道臣が国見岳八十梟帥の残党を騙し討ちにするために大室を造り酒宴を開いた場所だ。

国見岳八十梟帥は越前素戔嗚であり八千矛だ。道臣が討伐した残党は久比岐近辺に入り込んだ越前勢だろう。よって忍坂は高志東部、加賀・能登越中あたりにあると推測する。
坂は越すものなので、高志と掛けているのだろう。

献策どおり椎根津彦が墨坂の障害を排除して高志から南下、淡路から進軍する神武(淡路勢)との共闘により、兄磯城畿内)を挟み撃ちにする構図が想定できる。

神武[1]紀戊午年 冬 十有一月癸亥朔巳己
先是 皇軍攻必取戰必勝 而 介冑之士 不無疲弊 故 聊爲御謠 以慰將卒之心焉 謠曰

先是 皇軍の攻めは必ず戦いを取り必ず勝つ 而 介冑(甲冑)の士 疲弊は無からず 故 聊(かりそめ)に御謠を為す 以て将卒の心を慰める焉 謠い曰く

―― 中略(歌) ――

果 以男軍越墨坂 從後 夾擊破之 斬其梟帥兄磯城

果たして 以て男軍が墨坂を越す 従後 夾(はさ)み之を撃破する 其の梟帥(たける、勇猛な族長)兄磯城等を斬る

丹波の国譲り

天穂日および経津主と武甕槌は、丹波大己貴の国譲りには関与しなかった。
一方、天稚彦と味耜高彦根および事代主は丹波大己貴の国譲りに関与したと考える。

事代主は大己貴に避けるよう勧め、海中に八重の蒼柴籬を造って船枻を踏み、自分も避ける。この「避ける」の語感が、国譲りを迫られた場面で用いるのは適切でないように感じられる。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 本伝
故 以熊野諸手船 亦名天鴿船 載使者稻背脛 遣之 而 致高皇産靈尊勅於事代主神 且問將報之辭 時 事代主神 謂使者曰 今 天神有此借問之勅 我父宜當奉避 吾亦不可違 因於海中造八重蒼柴 柴 此云府璽 籬 蹈船枻 船枻 此云浮那能倍 而 避之

故 熊野諸手船を以て 亦の名を天鴿船 使者の稲背脛を載せる 之に遣わす 而 事代主神高皇産霊尊の勅を致す 且つ将報の辞を問う 時 事代主神 使者に謂い曰く 今 天神は此の借問(しゃくもん、試しに問う)の勅有り 我が父は当に奉り避けるが宜しい 吾も亦た違う可からず 因て海中に八重の蒼柴 柴 此れ云う府璽 籬を造る 船枻(せがい、舷に渡した板)を踏む 船枻 此れ云う浮那能倍 而 之を避ける

しかし神武東征に重ねて考察すると、兄磯城討伐および長髄彦討伐へ向かう神武(淡路)と椎根津彦(久比岐)の軍勢を「避ける」と解釈できる。

逐降の敗者だった越前八千矛の後裔である丹波大己貴と事代主が、勝者たる淡路勢と久比岐勢に対して協調路線をとり、その後のヤマトに参画することになった。
これが丹波大己貴の国譲りだろう。

長髄彦

長髄彦饒速日の義理の兄であり部下だが、神武を天神の子と認めながらも退かず戦いを続行したため、饒速日長髄彦を誅して神武に帰順した。神武はこれを手柄として饒速日を寵する。

物語としては二度目の vs.長髄彦戦だ。物語構成の観点からみた長髄彦は、淡路勢と饒速日勢を神武という単一存在に集約させる設定を補強している。

長髄彦畿内抵抗勢力とみられる。
神武以前の畿内の有力氏族には葦原醜男がいる。

和歌山平野にある伊太祁曽神社は素戔嗚の子である五十猛を祀る。伊太祁曽神社の西方向4km余りに五瀬(長髄彦との初戦で逝去した神武の長兄)を祀る竈山神社、竈山神社の北方向3kmほどに神代紀第七段(逐降と天岩戸)一書第一が日矛と日前を祀ると記す日前神宮國懸神宮がある。

長髄彦は、葦原醜男と須世理毘売の子孫かもしれない。

和歌山平野紀淡海峡を挟んで淡路島に面する。
東征の旅程を無いものとして考察すると和歌山平野は、淡路 vs. 紀伊の戦場になりやすく、淡路勢を迎え撃つ在地勢力が、伊勢からの増援に背後を突かれれば一溜まりもない土地だろう。

饒速日勢が伊勢から和歌山平野へ向かうなら、陸路で菟田を経由したのち紀ノ川(吉野川)を下るコースが想定できる。
実際の兄猾討伐はこのタイミングだったかもしれない。

長髄彦饒速日に誅殺され、瀬戸内を通して九州-高志を結ぶ交易路の安全が確保された。大和は『道』から始まったと云えよう。

建国神話第六章 国譲り神話

前回の要点:
日本海を航行した科野安曇氏が八岐大蛇であり、草薙剱の所有者。
八岐大蛇退治は逐降の原因。
時系列を逆転させて美談に転換したのは、山陰出雲に受け入れてもらうため。素戔嗚を山陰出雲に関連づけることで翡翠の産地を隠匿した。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 本伝:
高皇産霊が孫の瓊瓊杵を葦原中国の主にすべく天穂日を降ろすが音沙汰なく、次いで降ろした天稚彦も音沙汰なくて、無名雉を催促に遣わす。天稚彦は天探女の讒言を聞いて無名雉を射殺し、その矢が反矢となって天稚彦を射殺す。葬儀に弔問した友人の味耜高彦根は容姿が天稚彦と似ていたため遺族に故人と間違われ憤慨する。
高皇産霊は経津主と武甕槌を降ろす。二神に国譲りを迫られた大己貴は、事代主の進言を受けて要求を呑み、広矛を二神に授ける。二神は鬼神等を誅したのち、建葉槌を加えた三神で星神香香背男を討つ。
天降った瓊瓊杵は高千穂から笠狭之碕へ遊行して、鹿葦津姫(木花開耶姫)を見初め娶る。鹿葦津姫は一夜で孕み、瓊瓊杵に疑われ、姫は火を放った産屋で彦火火出見ら三子を産み潔白を証明する。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 一書第二:
天神に遣わされた経津主と武甕槌は天津甕星(天香香背男)を討ったのち降る。国譲りを迫ると大己貴が疑うので、二神は戻り報告する。高皇産霊は二神を還して大己貴に神事を治めよと勅し、天日隅宮・高橋浮橋・天鳥船・打橋・白楯を造り供えて天穂日が汝を祀ると告げる。大己貴は岐神を二神に薦め、隠者になる。
この時、大物主と事代主が八十万神を引連れ天に昇って誠款(誠と真心)を述べる。高皇産霊は娘の三穂津姫を大物主に娶らせて八十万神を統べさせ、御手代の太玉に祀らせる。これを天兒屋が太占で助ける。
高皇産霊は孫のために天兒屋と太玉を天忍穂耳の陪従とし、天照は天忍穂耳に宝鏡と稲穂を持たせ、陪従の二神に同床共殿を勅する。天忍穂耳が天降る途中で子の瓊瓊杵が生まれ、瓊瓊杵が降り、天忍穂耳は天へ還る。
高千穂に降りた瓊瓊杵は平地へ行き海浜で鹿葦津姫(木花開耶姫)を見初める。姫の父の大山祇は姉の磐長姫も勧めるが、瓊瓊杵は美人の妹だけを娶る。磐長姫は、もし妾を斥けなければ永く磐石に寿いだのにと言う。鹿葦津姫は一夜で孕み、瓊瓊杵に疑われ、姫は火を放った産屋で彦火火出見ら三子を産み潔白を証明する。

丹波大己貴と杵築大己貴

本伝と一書第二は、「天穂日の派遣」および「経津主と武甕槌が大己貴のもとへ派遣され国譲りを迫る」ことは共通するが、異なる点もある。

本伝は、天津甕星討伐を国譲り後とし、事代主を大己貴の子と明記する。
一書第二は、天津甕星討伐を国譲り前とし、事代主を大物主と同列に扱う。

大物主は越前素戔嗚を祖とする丹波大己貴の勢力であるから、本伝の大己貴は丹波大己貴、一書第二の大己貴は杵築大己貴と思われる。

時系列は、本伝(丹波大己貴)→天津甕星討伐→一書第二(杵築大己貴)の順であろう。本伝と一書第二の共通項になっている天穂日や経津主・武甕槌の派遣のほうに嘘があると考える。

天穂日

誓約で誕生した五男神には宇佐より東の交易路を想定する。
その一柱である天穂日は、先代旧事本紀の国造本紀にも出雲国造の祖と記される。東方の出身で山陰出雲に移住した人物が想定できる。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
出雲國造
瑞籬朝(崇神) 以天穂日命十一世 孫宇迦都久怒 定賜國造

高志-北九州間を瀬戸内航路で行き来するようになれば、山陰は交易ルートから外れ、利益を得る機会が減る。よって瀬戸内との関係強化は、山陰出雲にとってメリットがあると考えられる。

一方で西から東へ流れる対馬海流にのって着岸する大陸の船を警戒する防衛前線として、山陰は瀬戸内や高志にとって依然として重要な地域だったと考えられる。

瀬戸内・高志と山陰の関係強化は双方の望むところだったろう。
双方の意向を受けて、天穂日が山陰出雲の首長に就いたと考える。

武甕槌

春日大社の創始は768年(称徳[48])と伝わる。
東京都江戸川区にある鹿見塚神社は、鹿島大神(武甕槌)が常陸鹿島神宮から大和へ向かう途中、この地で倒れた供の鹿を葬った場所と伝わる。
この伝承から、記紀が成立するまでの武甕槌は常陸鹿島の神だったと思われる。

関東攻略の記録としては、崇神[10]紀に武渟川別東海道派遣のほか、「以豐城命令治東(豊城命を以て東を治め令める)」とある。豊城入彦は崇神の皇子だ。
また景行[12]紀は、その孫および曾孫である彦狭島・御諸別が東山道十五国都督に就任したと記す(八綱田・彦狭島父子に同一人物説があり、御諸別は豊城入彦の孫とも考えられる)。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
上毛野國造
瑞籬朝(崇神)皇子豊城入彦命 孫彦狭島命 初治平東方十二國為封
下毛野國造
難波高津朝御世 元毛野國分爲上下 豊城命四世孫奈良別 初定賜國造

丹波大己貴の国譲りは神武[1]即位以前の出来事と考えられるため、関東勢の武甕槌は関与できないだろう。よって武甕槌が関与した国譲りには杵築大己貴の一書第二を想定する。

経津主

石見国物部神社は、祭神の宇摩志麻遅が神武[1]即位後、石見国に入って凶賊を討伐したと伝える。宇摩志麻遅は饒速日の子だ。渡来船を監視する防衛前線としての山陰地方を出雲国が総括するために、出雲国と対立する近隣勢力を饒速日勢が排除したと考える。

そして山陰平定後、軍事氏族である物部氏が運営した山陰の防衛拠点が、物部神社の前身ではなかろうか。そこに駐留する兵力として、香取海周辺から人々が動員されたのかもしれない。

石見国一宮 物部神社 物部神社とは 御由緒
その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。

一説では、経津主は韴霊剱を神格化した存在と云う。
韴霊剱は神武[1]紀の「戊午年 夏 六月乙未朔丁巳」に、武甕槌が高倉下に託して神武へ届けさせたとある。
また、物部氏が祀る石上神宮祭神の布都御魂大神は、韴霊剱の霊威と云う。

饒速日の子である宇摩志麻遅が物部氏の祖なので、韴霊剱を手にした神武が饒速日勢ならば「経津主=宇摩志麻遅」と考えられる。

しかし垂仁[11]紀は、皇女の大中姫が物部連に石上の管理を任せたと記す。
また上述の神武[1]紀では、武甕槌が韴霊剱を「予平國之劒(予が国を平らぐ之剱)」と呼んで、所有権を主張している。

垂仁[11]紀八十七年春二月丁亥朔辛卯
遂大中姬命 授物部十千根大連而令治 故 物部連等 至于今治石上神寶 是其緣也

遂に大中姫命 物部十千根大連に授けて治め令める 故 物部連等 今に至り石上神宝を治める 是は其縁也

日本書紀の記述は、韴霊剱の所有権が物部氏にないことを示唆する。
のちに韴霊剱を奪われそうになった物部氏が、石上神宮拝殿の裏に埋めて隠したとする説も見聞きしたことはあるが、真相はわからない。

それでも、出雲国風土記は武甕槌を記さない。また国譲り本伝に、武甕槌が騒ぐので経津主に配したとあることから、本来の主体は経津主だったと思われる。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 本伝
熯速日神之子武甕槌神 此神進曰 豈唯經津主神獨爲丈夫而吾非丈夫者哉 其辭氣慷慨 故 以即配經津主神 令平葦原中國

熯速日神の子の武甕槌神 此の神が進み曰く 豈(あに)唯だ経津主神独りを丈夫と為して吾は丈夫に非ざる者哉 其の辭氣(じき、言いぶり)は慷慨(こうがい、激しく憤る) 故 以て即ち経津主神に配する 葦原中国を平らげ令める

古事記の建御名方

久比岐には、奴奈川姫が大国主から逃げて自死した伝承がある。
この逸話における奴奈川姫は稚日女および倭迹迹日百襲姫と同一、大国主は八千戈および素戔嗚、大物主と同一である。

しかし奴奈川姫とは久比岐の首長を表す称号であり、個人名ではないと考える。この逸話より後の世代にも、首長の座を受け継いだ奴奈川姫たちが存在した。そのなかに大国主を夫にして建御名方を生んだ奴奈川姫がいるのだろう。

久比岐の土器の出土傾向が北陸系と信州系であることから、山陰の杵築大己貴が父であるとは考えにくい。丹波大己貴ならば可能性はあるだろう。

ただし古事記が記す建御名方の父は大国主であり、大己貴に限定していない。神代上第八段(八岐大蛇)一書第六は大国主の別名に大物主、大己貴、葦原醜男、八千戈、大国玉、顕国玉を挙げている。大国玉や顕国玉が父ならば建御名方は出雲の血筋ではない。

建御名方を出雲系と括るのは今すぐ止めていただきたい。
出雲国風土記は大穴持の子として多くの神の名を挙げるが、そこに建御名方は含まれないことを無視してはならない。

建御名方と、能登半島先端の神奈備である御穂須須美を同一視するのも乱暴だ。
出雲国風土記は御穂須須美の父を「所造天下大神」と記すが、大穴持とは記さない。「所造天下大神」をすべて大穴持とするのは学者先生方の解釈の一種にすぎず、大国玉や顕国玉なども「所造天下大神」である可能性が高い。

また先述のとおり、武甕槌は丹波大己貴の国譲りには関与しなかったと考える。
したがって、建御名方が武甕槌に追われ諏訪へ敗走したとする古事記の逸話は、山陰出雲でも丹波でもないと思われる。

一方で、科野洲羽勢は弥生末期に関東の勢力とも交流した痕跡がある。
世の常として、交流は必ずしも友好関係を築けるとは限らない。出雲国譲りとは一切関係ない理由で、場所で、時期に、科野洲羽勢(建御名方)と香取海周辺の勢力(武甕雷)は敵対したのかもしれない。

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上記PDFの 第12図 に地名を書き加えた

あるいは。
利根川支流のひとつ吾妻川を遡上すれば上毛野の奥地である草津に至る。
毛野国造に任じられた御諸別が、科野国造に任じられた建五百建と国の境界線で揉めた可能性も考えられるだろう。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
科野國造
瑞籬朝(崇神)御世 神八井耳命孫建五百建命 定賜國造

ただし、かつて利根川河口は現・江戸川であり、東京湾へ注いでいた。鹿島神宮のある香取海から太平洋へ注ぐ河川改修が江戸時代に行われ、現在の利根川になる。
毛野の豪族が武甕槌に例えられるかは微妙なところだ。

弥生時代の科野と上毛野について補足

礫床木棺墓は、弥生時代中期から後期の科野に見られる埋葬形式。
金井下新田遺跡(群馬県渋川市)にも礫床墓があり、ヤマト建国以前における科野と上毛野の交流の痕跡と考えられている。