天香山命と久比岐のあれやこれや

素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第五章 八岐大蛇

前回の要点:
丹生川上の祭祀で使用した土器の原料を採取したところの地名「埴安」は、武埴安彦を暗示するキーワード。
武埴安彦討伐と国見岳八十梟帥討伐と逐降は、同一の事変を描いている。
大彦=神武=高皇産霊
武埴安彦=国見岳八十梟帥=大国主(※)
大物主=八千矛=素戔嗚(※)
倭迹迹日百襲姫=奴奈川姫=稚日女
※武埴安彦=国見岳八十梟帥と八千矛=素戔嗚は同一と云えるが、登場するエピソードの主旨が異なるため分割した
大物主は、越前素戔嗚を祖として丹波大己貴を後裔とする地方勢力。
天岩戸日食は158年の日入帯食であり、阿波国の天磐戸神社が原作の舞台。

神代上第八段 八岐大蛇:
天より降った素戔嗚は、八岐大蛇に呑まれる予定の娘とその両親に出会う。酒を用意させて八岐大蛇に飲ませ、酔わせて切り、尾から出てきた草薙剣は天照に献上した。その後、救った娘である奇稲田姫を娶り清に住んだ。

九頭龍大神

首に八つの股があるなら頭は九つだ。
先述したように、素戔嗚ゆかりの剱神社がある越前平野には九頭竜川が流れる。

長野盆地北部にある戸隠神社には、天岩戸が飛んできたという伝承があり、奥社に手力雄、中社に思兼、九頭龍社に九頭龍を祀る。九頭龍の祭祀は手力雄や思兼より古いと云う。

長野盆地北部は栗林式土器を作っていた。
時代を下って4世紀前半に高遠山古墳、そのあと盆地のなかほどに森将軍塚古墳を有する埴科古墳群が築造される。

戸隠神社の北東方向に黒姫山がある。黒姫は、奴奈川姫の母と同じ名だ。
久比岐の伝承では、奴奈川姫の夫だった松本の豪族は、大国主に殺されたと云う。

糸魚川市 奴奈川姫の伝説 その1(『西頚城郡の伝説』より) 10.市野々(いちのの)の地名
 奴奈川姫の夫は松本の豪族であったが、大国主命との間に争を生じた。豪族は福来口で戦い、敗けて逃げ、姫川を渡り、中山峠に困り、濁川(にごりがわ)の谷に沿うて、市野々に上って来た。登り切って、後を望み見た所が、今の「覗戸(のぞきど)」である。大国主命に追いつめられ、首を斬られてしまった。後祀られたのが今の「大将軍社」である。

犀川信濃川千曲川)の支流で、長野盆地にある分岐点から遡上して松本盆地に入った辺りに穂高神社がある。祭神の穂高見は、志賀島阿曇氏祖の宇都志日金拆と同一とされる。 栗林式土器に小松式土器の影響が認められることから、科野安曇氏は日本海へ出て高志の各地勢力と交流したと考えられる。

戸隠神社の九頭龍が八岐大蛇であり、その実体は科野安曇氏だろう。
記紀は八岐大蛇が大悪事を働いたように書いているが、八岐大蛇の段は素戔嗚に都合のよい語り口になっている。実際は、当時の婚姻ルールに則った妻問いだったと考える。

反対に、逐降と天岩戸の第七段は天照側に都合がよいことから、第七段と第八段はそれぞれ利害の相反する地域の伝承と見做せる。視点が違うのだから、二つのエピソードは時系列的に重複または逆転しても成立するだろう。

そして八岐大蛇退治のエピソードは、逐降の原因を素戔嗚側の視点で綴った話と解釈したほうが、諸々の筋が通る。

素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませ、酔わせて殺し、切り刻むと尾から草薙剱が出てきた。これは、科野安曇氏の交易船の乗員を酒宴に招いて酔わせ、殺し、奪った金品のなかに草薙剱があったと解釈できる。草薙剱は積荷か、あるいは科野安曇氏の身分を証明する所持品か。

素戔嗚は八千戈であり、神武東征では国見岳八十梟帥として登場する。
国見岳八十梟帥の残党は、道臣が酒宴に招いて騙し討ちにした。これは「目には目を」を実行した報復と解釈できる。

逐降では、諸神が素戔嗚を追放した。
諸神、つまりは複数の勢力が討伐に参加したのだから、よほどの理由があったはずだ。交易船の襲撃は充分な理由になるだろう。科野安曇氏の交易船は、久比岐から翡翠を運んでいた可能性がある。

出雲大神宮

逐降の原因を美化したエピソードである八岐大蛇退治が記紀に収録された理由は、丹波と山陰出雲、二勢力の大己貴にあると考える。

丹波国亀岡にある出雲大神宮の通称は「元出雲」といい、元明[43]の御代(707~715年)に大国主一柱を杵築大社に遷したと伝える。

Wikipedia 出雲大神宮 2021年6月転写
祭神の大国主神については、一般には出雲国出雲大社(杵築大社)から勧請したとされている。ただし社伝では逆に、出雲大社の方が出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。社伝では、『丹波国風土記逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとする(ただし、社伝で主張するのみでその逸文も不詳)。

――元明[43]の御代は西暦707年から715年。
712年(和銅5年) 古事記成立。
713年(和銅6年) 丹後が丹波から分国。
――元正[44]の御代は西暦715年から724年。
719年(養老3年) 丹後の籠神社が天火明を祀りはじめる。
720年(養老4年) 日本書紀成立。

記紀成立の頃、籠神社の祭祀も変化していることから、記紀の記述に合わせて丹波の祭祀を変えた可能性が疑われる。また後述するが、記紀成立時の山陰出雲は逐降で追われた素戔嗚を受容しなかった節がある。

出雲大神宮の伝承は正しく、丹波大己貴こそ越前素戔嗚の嫡流なのだろう。
それを偽り、山陰出雲に受け入れさせるために、八岐大蛇退治と云う美談に変えて、素戔嗚と大己貴の身上をきれいに整えたのではなかろうか。

記紀が越前素戔嗚を山陰出雲に関連づけようとした理由としては、翡翠産地の場所を唐に知られないためだったのではないかと考える。

出雲国風土記

日本書紀は八岐大蛇を出雲国簸之川上(ひのかわかみ)の出来事と書くが、出雲国風土記は八岐大蛇について記さない。

杵築大己貴は、誓約で誕生した三女神のうち田心姫と湍津姫を妃にする。現代でも出雲大社は二柱の妃神を、須世理毘売と比べても遜色なく丁重に祀っている。
古代出雲は北九州勢と近しい間柄だったとみえる。

そして志賀島阿曇氏と科野安曇氏が示すように、地域伝承や系図から北九州と久比岐・科野の親しい関係性が窺える。古代出雲が、久比岐・科野にとって災いである越前の素戔嗚(八千矛)を快く思わないのは理に適っている。

また出雲では3世紀から花仙山瑪瑙を盛んに産出する。玉石の利権を狙う外敵を、どうして歓迎できようか。玉石の産地としての意識が、久比岐に対する共感につながったとしても無理なかろう。

出雲国一宮の熊野大社が祀る櫛御気野は素戔嗚と同一とされる。
しかし素戔嗚を「狗邪韓国をルーツとする氏族」と定義するなら、櫛御気野は素戔嗚だが逐降の素戔嗚とは別人であると解釈しても矛盾はない。

現に「出雲国造神賀詞」は素戔嗚を「伊射那伎の日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」と称する。日真名子は「愛兒」の意で読まれており、櫛御気野は伊弉諾に追放された素戔嗚ではないと考えられる。

とはいえ小羽山30号墓が存在する以上、2世紀初めに出雲国越前国には交流があったと考えられる。あくまで記紀編纂時における山陰出雲の主張が「出雲国の素戔嗚は越前国の素戔嗚とは異なる」だったという推測だ。
実際問題として、八岐大蛇退治に山陰出雲が関与したか否かはわからない。

手長足長

洲羽の手長神社は奇稲田姫の母である手摩乳を、足長神社は父である脚摩乳を祀る。二神は奴奈川姫と大国主の子である建御名方の祖だという。

手長足長は、昔話では手の長い巨人と足の長い巨人だ。
秋田の伝承では、鳥海山に住んで悪事を働くので、大物忌が襲来を知らせて人々を助けたという。大物忌は鳥海山の神であり、豊受大神と同神とされる。

wikipedia 手長足長 2021年10月転写
秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる。
wikipedia 大物忌神 2021年10月転写
大物忌神は、倉稲魂命豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とされる。鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神としている。

豊受姫は雄略[21]のころ、籠神社奥宮の天真奈井神社から伊勢外宮へ遷座されたと伝わる。

丹後一宮 籠神社 御由緒 2021年10月転写
その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。その故事により当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で「元伊勢」と呼ばれております。

逐降の素戔嗚は越前勢であり、その嫡流たる丹波大己貴の丹波勢が大物主であると推測した。

椎根津彦(久比岐)と高倉下(越中東部)と穂高見(科野)は綿津見を祖とする海人族だ。そして、第十章で扱うテーマだが、丹波越中東部と対立した結果、勝利する。

大物忌は大物主である丹波勢、手長足長は久比岐・越中東部・科野の海人族だろう。

椎根津彦は神武(大彦、淡路勢)と共闘して兄磯城を討伐する。淡路の五斗長垣内遺跡には鉄を加工した痕跡があり、鏃が多く出土している。

手に入れた鉄器を使い近隣の勢力を威圧した久比岐・越中東部・科野の海人族の姿が、秋田の伝承にある手長足長になったと考える。

建国神話第四章 逐降と国見岳と埴安(2)

前回の要点:
神武は高皇産霊。国見岳八十梟帥は大国主
越前の丹生山地と国見岳は素戔嗚ゆかりの地。
素戔嗚の狼藉が原因で神退った稚日女は、高志と瀬戸内をむすぶ経路(琵琶湖・淀川)を活動域にしていた息長氏に縁がある。
天岩戸で諸神が講じた策と、丹生川上で神武が行った祭祀は、天香山と真坂樹が共通する。天香山は弥彦神社祭神の名でもある。

埴安

神武[1]紀の末尾、東征を締めくくり即位するエピソードの直前に「或曰(或るいは曰く)」として、天香山の埴土を取った場所を「埴安」と云うとある。

神武[1]紀 己未年春二月壬辰朔辛亥 或曰(或るいは曰く)
天皇 以前年秋九月 潛取天香山之埴土 以造八十平瓮 躬自齋戒祭諸神 遂得安定區宇 故 号取土之處 曰埴安

天皇 前年秋九月を以て 天香山の埴土を潜み取る 以て八十平瓮を造る 躬(み)は自(みずか)ら斎戒し諸神を祭る 遂に安定の区宇(くう、区域)を得る 故 土を取る之処の号 曰く埴安

崇神[10]紀は「武埴安彦」の謀反を記す。
連座した妻の吾田媛が「倭香山の土」を取って「是倭國之物實(是は倭国の物実)」と祈り、討伐に向かった大彦は「爰以忌瓮 鎭坐於和珥武鐰坂上(爰(ここ)に忌瓮(いわいべ)を以て 和珥武鐰坂上に鎮坐する)」とある。

武埴安彦は「埴安」に通じ、倭香山は「天香山」に通じる。
討伐にあたり鎮座した大彦は、高皇産霊の顕斎になった神武に通じる。

崇神[10]紀十年秋七月丙戌朔 壬子
天皇姑倭迹々日百襲姬命 聰明叡智 能識未然 乃知其歌怪 言于天皇 是武埴安彥 將謀反 之表者也 吾聞 武埴安彥之妻吾田媛 密來 之取倭香山土 裹領巾頭而祈曰 是倭國之物實 乃反之 物實 此云望能志呂 是以 知有事焉 非早圖 必後之

天皇の姑の倭迹々日百襲姫命 聰明叡智 能(よ)く未然を識る 乃ち其の歌の怪を知る 天皇に言う 是は武埴安彦 謀反の将 之が表す者也 吾は聞く 武埴安彦の妻の吾田媛 密(ひそか)に来る 之は倭香山の土を取る 領巾(ひれ、女性が肩から垂らす細長い布)で頭を裹(果、つつ)みて祈り曰く 是は倭国の物実 乃ち之を反(かえ)す 物実 此れ云う望能志呂(ものしろ) 是以 有事を知る焉 図るに早いは非ず 必す後にある之

――中略――

天皇 遣五十狹芹彥命 擊吾田媛之師 即遮於大坂 皆大破之 殺吾田媛 悉斬其軍卒 復遣大彥與和珥臣遠祖彥國葺 向山背擊埴安彥 爰以忌瓮 鎭坐於和珥武鐰坂上 則率精兵 進登那羅山 而 軍之

天皇 五十狭芹彦命を遣わす 吾田媛の師(軍)を撃つ 即ち大坂に遮る 皆は之を大破する 吾田媛を殺す 悉く其の軍卒を斬る 復た大彦と和珥臣遠祖の彦国葺を遣わす 埴安彦を撃ちに山背へ向かう 爰(ここ)に忌瓮(いわいべ、神へ供える忌み清めた器)を以て 和珥武鐰坂上に鎮坐する 則ち精兵を率い 那羅山に進み登る 而 之に軍(いくさ)する

倭迹迹日百襲姫

さらに崇神[10]紀は、武埴安彦と吾田媛の謀反を看破した倭迹迹日百襲姫の死について記す。

夜しか会えない夫の大物主に、顔を見たいから朝まで居てほしいと姫が頼むと大物主は、姿を見て驚かないならと、条件つきで応じる。しかし朝、衣紐ほども長い蛇を見た姫が驚いたので、大物主は恥をかかされたと言って御諸山へ飛び去る。姫は仰ぎ見て、しゃがみこんだ拍子に陰部を箸で突いて亡くなる。

崇神[10]紀十年秋七月丙戌朔 壬子 是後
是後 倭迹々日百襲姬命 爲大物主神之妻 然 其神常晝不見而夜來矣 倭迹々姬命語夫曰 君常晝不見者 分明不得視其尊顏 願暫留之 明旦仰 欲覲美麗之威儀 大神對曰 言理灼然 吾明旦 入汝櫛笥而居 願無驚吾形 爰倭迹々姬命 心裏密異之 待明 以見櫛笥 遂有美麗小蛇 其長大如衣紐 則驚之叫啼 時 大神有恥 忽化人形 謂其妻曰 汝不忍 令羞吾 吾還令羞汝 仍踐大虛 登于御諸山 爰倭迹々姬命 仰見而悔之 急居 急居 此云菟岐于 則箸撞陰而薨

是後 倭迹々日百襲姫命 大物主神の妻と為る 然 其神は常に昼は見えずして夜に来る矣 倭迹々姫命は夫に語り曰く 君が常に昼に見えずは 分明(ふんめい、はっきり)に其の尊顏を視るを得ず 暫く之に留まるを願う 明くる旦(あさ)仰ぎ 美麗の威儀に覲(まみ)えるを欲する 大神は対し曰く 言の理は灼然 吾は明くる旦(あさ) 汝の櫛笥に入りて居る 吾の形に驚きの無しを願う 爰(ここ)に倭迹々姫命 心裏で密(ひそか)に之を異(あや)しむ 待り明かす 以て櫛笥を見る 遂に美麗な小蛇有り 其の長大は衣紐の如し 則ち之に驚き叫び啼く 時 大神は恥有り 忽ち人形に化ける 其妻に謂い曰く 汝は忍ばず 吾を羞(恥)か令(し)める 吾は還り汝を羞(恥)か令(し)める 仍て大虚(宙空)を踐(ふ)み 御諸山に登る 爰(ここ)に倭迹々姫命 仰ぎ見て之を悔いる 急居(つきう、しゃがみこむ) 急居 此れ云う菟岐于 則ち箸が陰を撞(つ)きて薨る

神代上第七段(逐降と天岩戸)の一書第一では、素戔嗚が斎服殿に投げ入れた逆剥ぎの斑駒に驚いた稚日女が、所持する梭で体を傷つけ神退る。

古事記上巻では、素戔嗚が忌服屋に投げ入れた逆剥ぎの斑駒に驚いた天服織女が、梭で陰部を突いて亡くなる。

稚日女と倭迹迹日百襲姫の死因は、陰部を損傷するという点が共通する。

古事記上巻
穿其服屋之頂 逆剥天斑馬剥而 所墮入 時 天服織女見驚 而 於梭衝陰上而死 訓陰上云富登

其の服屋の頂を穿ち 天斑馬を逆剥ぎに剥ぎて 所墮とし入れる 時 天服織女が見て驚く 而 梭に陰上(ほと、陰部)を衝きて死ぬ

崇神[10]紀は、倭迹迹日百襲姫を箸墓に葬ったと記す。
その墓を築造するとき人足がうたった歌は「コシ」を繰り返す。これは高志に掛けてあり、倭迹迹日百襲姫が高志の女性であると暗示するものと考える。

崇神[10]紀 十年秋七月丙戌朔 壬子 是後
乃葬於大市 故 時人号其墓謂箸墓也 是墓者 日也人作 夜也神作 故 運大坂山石而造 則自山至于墓 人民相踵 以手遞傳而運焉 時 人歌之曰

乃ち大市に葬る 故 時の人は其墓を号し箸墓と謂う也 是墓は 日や人が作る 夜や神が作る 故 大坂山の石を運びて造る 則ち山より墓に至る 人民は相い踵(つ)ぐ 手を以て遞傳(ていでん、中継して伝え送る)して運ぶ焉 時 人は之を歌い曰く

飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂

大坂(おほさか)に 継(つ)ぎ登(のぼ)れる 石群(いしむら)を たごしに越(こ)さば 越しがてむかも

大物主

大物主は、神代上第八段(八岐大蛇)一書第六を根拠に、大国主と同一とされる。

神代上第八段 八岐大蛇 一書第六
大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神

大国主神 亦の名を大物主神 亦の號は国作大己貴命 亦曰く葦原醜男 亦曰く八千戈神 亦曰く大国玉神 亦曰く顕国玉神

――中略――

神光照海 忽然有浮來者 曰 如吾不在者 汝 何能平此國乎 由吾在故 汝 得建其大造之績矣 是時 大己貴神問曰 然則汝 是誰耶 對曰 吾是 汝之幸魂奇魂也 大己貴神曰 唯然 廼知汝是 吾之幸魂奇魂 今 欲何處住耶 對曰 吾欲住於日本國之三諸山 故 即營宮彼處 使就而居 此大三輪之神也

神光が海を照らす 忽然と浮き来る者有り 曰く もし吾が在らずは 汝 何ぞ能く此国を平らぐ乎 由(理由)は吾が在る故(ゆえ) 汝 其の大造の績を建て得る矣 是時 大己貴神は問い曰く 然らば則ち汝 是は誰耶 対し曰く 吾は是 汝の幸魂奇魂也 大己貴神は曰く 唯然り 廼(すなわ)ち汝は是と知る 吾の幸魂奇魂 今 何処に住むを欲する耶 対し曰く 吾は日本国の三諸山に住むを欲する 故 即ち彼の処に宮を営む 就いて居(お)ら使む 此は大三輪の神也

その大国主は、
 本伝では、素戔嗚と奇稲田姫の子(大己貴)
 一書第一では、素戔嗚と奇稲田姫の子の五世孫(大国主
 一書第二では、素戔嗚と奇稲田姫の子の六世孫(大己貴)
である。

日本書紀を読むコツのひとつに『神は地方勢力を表す』がある。
よって大物主とは、素戔嗚を祖として大己貴を後裔とする氏族が治める勢力と解釈する。

すなわち、素戔嗚も大物主と考える。

奴奈川姫

神代上第八段(八岐大蛇)一書第六に列記された大国主の別名のなかに「八千戈」もある。八千矛が奴奈川姫に妻問いしたエピソードが古事記にあり、これは「神語歌」と呼ばれる。

久比岐の伝承によれば、奴奈川姫は大国主から逃げて自死した。

奴奈川姫伝説その2(『天津神社並奴奈川神社』より)
4.糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子(ちご)ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦(あし)原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。
5.奴奈川姫の命は御色黒くあまり美しき方にはおはさざりき。さればにや一旦大国主命に伴はれたまひて能登の国へ渡らせたまひしかど、御仲むしましからずしてつひに再び逃げかへらせたまひ、はじめ黒姫山の麓にかくれ住まはせたまひしが、能登にます大国主命よりの御使御後を追ひて来たりしに遇(あ)はせたまひ、そこより更に姫川の岸へ出(い)でたまひ川に沿うて南し、信濃北条の下なる現称姫川原にとどまり給ふ。しかれとも使のもの更にそこにも至りたれば、姫は更にのがれて根知谷に出でたまひ、山つたひに現今の平牛山稚子ヶ池のほとりに落ちのびたまふ。使の者更に御跡に随(したが)ひたりしかども、ついに此稚子ヶ池のほとりの広き茅(かや)原の中に御姿を見失ふ。仍(より)てその茅原に火をつけ、姫の焼け出されたまふを俟(ま)ちてとらへまつらんとせり。しかれども姫はつひに再び御姿を現はしたまはずしてうせたまひぬ。仍て追従の者ども泣く泣くそのあたりに姫の御霊を祭りたてまつりしとなり。

妻問いには男女の性交がつきものだ。
陰部が傷つくという表現は、女性が望まない婚姻を暗示すると考える。

すなわち、
「稚日女=倭迹迹日百襲姫=奴奈川姫」
が同一人物であり、彼女の不幸な婚姻の相手である
「素戔嗚=大物主=八千矛」
が同一人物である。

天岩戸と日食

2世紀初めの築造と目される小羽山30号墓が、素戔嗚が越前で隆盛した証しなら、逐降は2世紀半ばと考えられる。
そして天岩戸隠れが日食の記録なら、158年の日入帯食が該当する。

恥ずかしながらΔT値については全く理解が及ばないので鵜呑みにさせていただく。
上記PDF掲載の「図4:158年7月13日の日食の食帯図」では、安芸埃宮と阿波国の天磐戸神社が皆既帯にある。また、天磐戸神社の地形は物語に通じると云う。

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図4に地名を書き加えた図

記紀編纂時に、阿波国の伝承を元に天岩戸神話が創作された可能性があるだろう。

建国神話第三章 逐降と国見岳と埴安(1)

前回の要点:
誓約で生まれた五男神は瀬戸内を含む交易路を指し、宇佐ー対馬間の三女神と合わせ、鉄ていや玉石を流通する大陸との交易路を表す。
鍛冶技術を携え入植した淡路勢は、翡翠の産地である久比岐勢と交流していた。
これより前、伊勢に入植していた饒速日勢は、同じく翡翠の産地である越前東部から東海に入植した尾張勢と交流をもち、畿内に強い影響力を得た。
神武東征の物語は吉野巡幸をもって一区切りとする。続く国見岳からは新章に入る。

神代上第七段 逐降と天岩戸:
高天原で数々の狼藉を働く素戔嗚を許容できなくなった天照が岩戸に籠り、闇に閉ざされた世界を憂える諸神が策を講じて岩戸から天照を引きだして、素戔嗚には罰を科して追い払う。

国見岳八十梟帥と兄磯城

神武[1]紀戊午年 秋 九月甲子朔戊辰。
国見岳の八十梟帥、磐余邑の兄磯城が道を塞ぐ様子を、高倉山から確認した神武は神の教えに従い、椎根津彦と弟猾に天香山の土を取って来させ、その土でつくった器を用いて丹生川上で祭祀を行った。

このとき神武は道臣に「今 以高皇産靈尊 朕親作顯齋」と言う。顕斎(うつしいわい)とは神に見立てる人間のことで、神武は高皇産霊になった。

高皇産霊は、神代下第一段(国譲りと天孫降臨)本伝で、瓊瓊杵を葦原中国の主にすると言いだして国譲りを決行した神だ。その高皇産霊を神武の身に降ろして国見岳八十梟帥と兄磯城を討つということは、国見岳八十梟帥が大国主であり、ここから国譲りが始まることを示唆していると解釈できる。

神武[1]紀戊午年 秋 九月甲子朔戊辰
時 椎根津彥 見而奏之 天皇大喜 乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹 以祭諸神 自此始 有嚴瓮 之置也 時 勅道臣命 今 以高皇産靈尊 朕親作顯齋 顯齋 此云于圖詩怡破毗 用汝爲齋主 授以嚴媛之号

時 椎根津彦 見て之を奏じる 天皇は大いに喜ぶ 乃ち丹生川上の五百箇(いおつ)真坂樹を抜き取る 以て諸神を祭る 此より始まる 厳瓮有り 之を置く也 時 道臣命に勅する 今 高皇産霊尊を以て 朕は親(みずか)ら顕斎(うつしいわい、人間を神に見立てる)を作る 顯斎 此れ云う于圖詩怡破毗 汝を用い斎主と為す 以て厳媛の号を授ける

神代下第一段 国譲りと天孫降臨 本伝
天照大神之子 正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊 娶高皇産靈尊之女𣑥幡千千姬 生天津彥彥火瓊瓊杵尊 故 皇祖高皇産靈尊 特鍾憐愛 以崇養焉 遂欲立皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊 以爲葦原中國之主

天照大神の子 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 高皇産霊尊の娘の𣑥幡千千姫を娶る 天津彦彦火瓊瓊杵尊を生む 故 皇祖の高皇産霊尊 特に憐愛(れんあい)を鍾(あつ)める 以て崇(たっと)び養う焉 遂に皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てるを欲する 以て葦原中国の主と為す

越前の丹生山地と国見岳

国見と丹生はどちらも珍しくない地名だ。
国見は、いつかの時代のカリスマが国見を行った伝承などが由来になりやすい。 丹生は辰砂(しんしゃ、水銀朱)の産地に名づけられる。

越前は、丹生山地のなかに国見岳がある。
麓には2世紀初めの築造と目される比較的大きな四隅突出型墳丘墓の小羽山30号墓があり、山あいには素戔嗚にまつわる伝承をもつ剱神社と座ヶ岳社がある。

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越前の丹生山地と国見岳周辺
織田文化歴史館 劔神社 1 劔神社の歴史 (1)由緒
劔神社の古伝によれば、第7代の孝霊天皇の御代、伊部の郷の住民が座ヶ岳(標高390m)の峰に素戔嗚尊の神霊を祀ったと伝えられる。
 その後、第11代の垂仁天皇の御代に、伊部臣という郷民の長が、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が鳥取川上宮で作らせたという御剣を、素戔嗚尊の御霊代(御神体) として奉斎し、「剣の大神」と称えて崇めたと伝えられる。伊部臣とは、第5代の孝昭天皇の第1皇子の天足彦国押人命(あめたらしひこおしひとのみこと)の子孫であるといわれ、伊部氏の長となり、代々伊部臣と称したようである。
 また、劔神社仲哀天皇第2皇子である忍熊皇子が、座ヶ岳の剣大明神を現在の地に遷し祀ったことにちなむ。座ヶ岳は劔神社の元宮という位置づけで、両者には深い関係性が認められる。

越前にある小羽山30号墓は突出部を含めた全長が33mあり、四隅突出墳としては大型の部類に入る。

四隅突出墳は中国山地と山陰に多く、小羽山30号墓とほぼ同時期に山陰出雲で大型の西谷3、4、2号墳が築造されている。未発見なだけで他にも大型のものが存在する可能性はあるが、現状ではこの大きさから、小羽山30号墓は山陰出雲の影響を受けた墓制と考えられるだろう。

そして、越前平野には九頭竜川が流れている。
よく言われることだが、首に八つの股があれば頭は九つだ。八岐大蛇を連想させる 河川名も素戔嗚の痕跡と考えられるだろう。

稚日女

誓約で悪意のない訪問であることを証明した素戔嗚は、高天原で狼藉を重ねる。
一書第一は、素戔嗚の悪行が原因で稚日女が神退ったと記す。

神代上第七段 逐降と天岩戸 一書第一
稚日女尊 坐于齋服殿 而 織神之御服也 素戔嗚尊 見之 則逆剥斑駒 投入之殿内 稚日女尊 乃驚 而 墮機 以所持梭傷體 而 神退矣

稚日女尊 斎服殿に坐す 而 神の御服を織る也 素戔嗚尊 之を見る 則ち斑駒を逆剥ぐ(皮を尾の方から剝ぐ、古代では禁忌) 之を殿内に投げ入れる 稚日女尊 乃ち驚く 而 機より墮ちる 以て所持する梭が体を傷つける 而 神退る矣

稚日女は神宮皇后紀にも登場する。
新羅討伐の帰路、途中で出産した神功皇后は難波へ向かうが、船が廻り進まない。卜ったところ、天照・稚日女・事代主・住吉三神がそれぞれに場所を言うので其処に祀ると、船が進みだした。

神功皇后紀 伐新羅之明年春二月(仲哀九年の翌年)
皇后之船𢌞於海中 以不能進 更還務古水門 而 卜之 於是 天照大神誨之曰 我之荒魂 不可近皇居 當居御心廣田國 卽以山背根子之女葉山媛令祭 亦 稚日女尊誨之曰 吾欲居活田長峽國 因以海上五十狹茅令祭 亦 事代主尊誨之曰 祠吾于御心長田國 則以葉山媛之弟長媛令祭 亦 表筒男中筒男底筒男 三神誨之曰 吾和魂 宜居大津渟中倉之長峽 便因看往來船 於是 隨神教 以鎭坐焉 則平得度海

皇后の船は海中に𢌞る 以て進むに能わず 更に務古水門に還る 而 之を卜う 於是 天照大神が之を誨え曰く 我の荒魂 皇居に近くある可からず 当に御心に居らんは広田国 即ち山背根子の女の葉山媛を以て祭ら令む 亦 稚日女尊が之を誨え曰く 吾は活田長峡国に居るを欲する 因て海上五十狭茅を以て祭ら令む 亦 事代主尊が之を誨え曰く 吾を祠るは御心に長田国 則ち葉山媛の弟の長媛を以て祭ら令む 亦 表筒男中筒男底筒男 三神は之を誨え曰く 吾の和魂 大津渟中倉の長峽に居るが宜しい 便ち因て往来の船を看る 於是 神の教えに隨う 以て鎮まり坐す焉 則ち平らかに海を度(渡)り得る

神功皇后の出身氏族である息長氏は、琵琶湖・淀川から吉備に到るまでを活動域にした有力氏族で本拠地は近江国、琵琶湖の北東とする説が有力。
息長氏の活動域は、瀬戸内と高志をむすぶ経路に重なる。

神功皇后のエピソードに登場するからには、息長氏と稚日女・事代主には何らかの縁があるのだろう。息長氏の本拠地の有力候補地は越前にも近い。

天香山

神代上第七段(逐降と天岩戸)では、岩戸に隠れた天照を誘き出すために、
 本伝は、天香山の五百箇真坂樹を使う。
 一書第一は、天香山の金(かね)で作った日矛を使う。
 一書第三は、天香山の真坂木を使う。

神武[1]紀では、丹生川上の祭祀のときに神武が、天香山の土で作った器と丹生川上の五百箇真坂樹を使う。

ふたつのエピソードで「天香山」「真坂樹」のキーワードが共通する。

神代上第七段 逐降と天岩戸 本伝
中臣連遠祖天兒屋命 忌部遠祖太玉命 掘天香山之五百箇眞坂樹 而 上枝懸八坂瓊之五百箇御統 中枝懸八咫鏡 一云眞經津鏡 下枝懸靑和幣 和幣此云尼枳底 白和幣 相與致其祈禱焉

中臣連遠祖の天兒屋命 忌部遠祖の太玉命 天香山の五百箇真坂樹を掘る 而 上枝に八坂瓊之五百箇御統を懸ける 中枝に八咫鏡 一に云う真経津鏡 を懸ける 下枝に青和幣と 和幣 此れ云う尼枳底 白和幣を懸ける 相與(あいとも)に其の祈祷を致す焉

神代上第七段 逐降と天岩戸 一書第一
卽以石凝姥爲冶工 採天香山之金 以作日矛 又 全剥眞名鹿之皮 以作天羽韛 用此奉造之神 是卽紀伊國所坐日前神也

即ち石凝姥を以て冶工と為す 天香山の金(かね)を採る 以て日矛を作る 又 真名鹿の皮を全て剥ぐ 以て天羽韛(ふいご)を作る 此れを用い造り奉る之神 是れ即ち紀伊国に坐す所の日前神也

神代上第七段 逐降と天岩戸 一書第三
天兒屋命 握天香山之眞坂木 而 上枝懸以鏡作遠祖天拔戸兒石凝戸邊所作八咫鏡 中枝懸以玉作遠祖伊弉諾尊天明玉所作八坂瓊之曲玉 下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿

天兒屋命 天香山の真坂木を握る 而 上枝に鏡作遠祖の天拔戸の兒の石凝戸邊を以て作る所の八咫鏡を掛ける 中枝に玉作遠祖の伊弉諾尊の兒の天明玉を以て作る所の八坂瓊之曲玉を掛ける 下枝に粟国(阿波国)忌部遠祖の天日鷲を以て作る所の木綿を掛ける

神武[1]紀戊午年 秋 九月甲子朔戊辰
天皇甚悅 乃以此埴造作 八十平瓮天手抉八十枚 手抉 此云多衢餌離 嚴瓮

天皇は甚だ悦ぶ 乃ち此の埴を以て造作する 八十平瓮天手抉八十枚 手抉 此れ云う多衢餌離(たくじり) 厳瓮

――中略――

椎根津彥 見而奏之 天皇大喜 乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹 以祭諸神 自此始 有嚴瓮之置也

椎根津彦 見て之を奏じる 天皇は大いに喜ぶ 乃ち丹生川上の五百箇真坂樹を抜き取る 以て諸神を祭る 此より始まる 之に置く厳瓮有り也

天香山は弥彦神社の祭神と同じ名前だ。
弥彦神社の麓に広がる越後平野、とくに信濃川流域は、縄文時代の火焔型土器のメッカだ。さらに信濃川を遡上して科野に入ったところの長野盆地北部では弥生後期、ベンガラで着色した栗林式土器が作られた。